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表題の「ものいうウサギとヒキガエル」のウサギとヒキガエルは、言わずと知れた『ピーター・ラビットのおはなし』のピーター・ラビットと、『たのしい川べ』のヒキガエルである。副題が示すように、本書はビアトリクス・ポターとケニス・グレアムの評伝で、著者は日本を代表する英米児童文学者の一人、猪熊葉子である。 ポターもグレアムもイギリスの動物ファンタジーの先駆的作家であり、二人の作品が好きな人には魅力的な本書だが、まず、あとがきをお読みいただきたい。なぜ、ポターとグレアムなのか、ということが分かり、興味がますこと確実だからである。著者は、『たのしい川べ』のヒキガエルがパーティを前にして身仕度している場面で彼が髮の毛をわけたと書いてある部分を、カエルにあるまじきこととしてポターがグレアムを非難したという手紙を読み、反論したくなったと、述べている。さらに、「カエルに毛をはやしてもよいかどうかという問題は、じつにファンタジーという文学のジャンルと深くかかわっているのではあるまいか、と思うようになり」、伝記的方法を用いて二人の動物ファンタジーの違いにまで論をすすめた、としている。 本文は、ポターについては主にマーガレット・レインによる伝記を、グレアムについてはピーター・グリーンの伝記を下敷きにして、二人の生涯と作品を丹念に追っていく。ポターについては、イギリスの中産階級の家に生まれ、ヴィクトリア時代のいわゆる「子ども部屋」育ちで、一生の大半を「リスペクタブル」な娘として抑圧された生活のなかに過ごしたこと、子ども時代の暗号の日記や、絵と動植物への興味、絵本作家としての「魔法の十三年」とその作品、婚約者の死、結婚後の農場経営と自然保護への貢献などが語られる。 グレアムについては、母を失い父にすてられ祖母、そして伯父に育てられた子ども時代、大学に進学できなかった失望と銀行への就職、作家としての出発、『黄金時代』と『夢みる日々』、結婚と息子アラステア、『たのしい川べ』と続く。 伝記的方法から浮かびあがるポターは、ピーター・ラビットを始めとする楽しくかわいい小動物の絵本からは想像できないほど「情の強わい」女性であった。社会や両親に抑圧された生活をおくりながらも、ポターはその抑圧をさけられないものとして受け入れ、それからの解放を、好きな絵を描き自分を表現し、しかもそれによって経済的な独立をはかることで実現させていった。ポターの擬人化の方法は、動物を徹底的に観察し、できるかぎり動物の生態に忠実であろうとする。その上に不自然にならないよう人間性の諸相を重ねてみるのである。ピーター・ラビットのおとうさんはマグレガーさんにつかまりパイにされてしまった。 一方のグレアムも、社会の束縛から空想によって自由になろうとした者のひとりであった。『黄金時代』と『夢みる日々』の子どもの現実生活のスケッチは、黄金時代である幼年時代を再現する喜びと子どもに無関心無理解なオリンピアンを風刺する二つの目的を同時に満たしたものだった。そして子どもを描くよりもっとグレアムの目的に合致したのが、動物を擬人化した『たのしい川べ』であった。グレアムの擬人化の方法は動物の生態はある程度無視しても、表現したい作家の心理や感情の諸相を、動物たちに託すのである。川べの世界はグレアムにとってアルカディアであり、モグラもネズミもアナグマもヒキガエルもグレアムの分身なのだ。 現実の自然を背景に動物ファンタジーをつくりあげたポターとグレアムだが、二人のファンタジーの根本的な違いは、グレアムが社会や家庭の抑圧に忍従しながらも強烈にそれからの逃走を願っていたのに対し、ポターはその願望を自覚していなかったことにあった。これは擬人化の方法にも関連し、ポターの場合自分の分身といえるものはあひるのジマイマだけである。『たのしい川べ』でヒキガエルが髪をなでつけるのは不自然だ、とポターがグレアムを非難したのは、見当はずれの主張だったのだ。(ポターは髪があるからにはカエルがかつらをかぶっていた、と解釈したという。) 「ウサギとヒキガエル、大いに語る」である。(森恵子)
図書新聞 1992年8月29日
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