ペーターの赤ちゃん

グン・ヤコブソン作

奥田継夫 ケイコ・コックム訳 ポプラ社 1971/1980


           
         
         
         
         
         
         
     
モペットを乗り回し、たばこはバイト先から失敬し、ビールは父親のを盗み飲む、一六才。ペーターはごく普通の悪ガキ。実はセックスの経験もあり、相手のマリアンが妊娠し、女の子が生まれ、それが切っ掛けになって別れた。けれど、マリアンの赤ん坊の父親がだれかはだれにも知られていないから表面上はやっぱり、ごく普通の悪ガキ。
それがある時、変わってしまう。引っ越しをすることになったマリアンが、「あたしがめんどうみられないんだから、あなたがめんどうみるほか、ないじゃない」と言って赤ん坊をペーターに引き渡したのだ。とまどうペーター。しかし、「男親だって、考えてみりゃ、子どもの世話ができるんだから」と考える。けれどやっぱり、「育児? 女の仕事だ」とも思ってしまう。赤ん坊の名前はレーナ。ごく普通の悪ガキの子育てが始まる。
これは、子育ては大人の女がするものだ、という「常識」の転換を迫る物語である。
表面的に「常識の転換」をする物語は簡単だ。常識が描く設計図の何もかもにノーを突き付け、常識を置き去りにし、違う方向の勝利を描けばいいだけなのだから。けれど、それでは、現実の常識と物語の間に溝を作るだけでつまらない。「ペーターの赤ちゃん」はそんな愚を犯していない。常識が作動する地点を的確に描きだす。
例えばペーターの母親。「あたしがめんどうみるかも知れないなんて、思わないでよ。また、はじめからやりなおしなんてつもりは、これっぽっちもありませんからね。子どもなんて。もう、こーりごり。男もね」。彼女は呑んだくれの夫に愛想をつかしている。しかも、働き出し、自分の手で稼ぎ出す解放感も味わっている。いくら自分の孫娘だからといって、ペーターのかわりに面倒をみることはしたくない。と同時に、「一回でも抱いてしまえば、あの、かわいい女の子のめんどうをみたいという気持ちをくいとめることができるだろうか? できっこない」ことも知っている。そこで、「このままじゃ、むすこの青春はかれてしまう」という常識的な解釈に移行し、ペーターのいない間に、レーナを養子に出してしまう。ここには、相手を抑圧してしまうタイプの「良心的」な常識が、どのようにして作動するかがよく現れている。自分を守りたいという母親の正直な思いが、正当化の過程で常識に身を寄せてしまうのだ。もちろん物語はそんな母親を非難はしているのではなく、むしろ、彼女自身が、性別役割分担という常識に抑圧されつづけてき た側なのであることを忘れてはいない。
こうした描き方によって、男であり、子どもでもある、ペーターが対峙すべき問題がくっきりと見えてくる。それは、男の子に子育ては相応しいかが引っ掛かっているにもかかわらず、子どもに子育てができるかにすり替えてしまう「良心的」常識の存在だということが。
「これが女だったら、たとえ、一六さいの女の子でも、あたりまえのこと。注目をあびることもないし、ひなんされないことだろう」というわけだ。 ここでも物語は、単純に常識にノーを突き付けることはなく、「なんど、くりかえしてもいい。(中略)赤ちゃんのおとうちゃんであることはたいくつなことだ」し、「赤ん坊はたいくつで、不自由なもので、めんどうで、あきあきする」という思いをちゃんと描きながら、「マリアンが子どもをおいてっちゃったのがそんなに変なら、おれが子どもをどこかにおいても変じゃないか」、そして、「ほかのおかあさんにできることが、おとうさんにできないことはない」へと至るペーターの心の動きを丹念に追っている。
さて、レーナを奪われたペーター。当然物語は、レーナをペーターの元へ奪還すべく展開し、それを果たすわけだが、そのことは、赤ん坊は母親ではないにしろやはり実親(ペーター)に育てられるのが幸せだという、もう一つの常識の勝利を示しているわけではない。レーナを育てることがペーターにとって大切なことなのだ、ペーターのほうがレーナを必要としているのだという辺りが重要な視点だろう。ペーターは、ごく普通の悪ガキから、他のだれでもないペーター自身になるのだ。
しかも、そのハッピィエンドで閉じることなく、物語はもう一章を追加する。
「映画なら、ここで終わる。(中略)現実はいつも、映画が終わったところからはじまる」と。
そして、「もし、ペーターが女の子なら、子どもを育てるのに適性かどうかなど、ぜったいに議論の対象にならないのに」という福祉事務局員エリザベートの言葉で終わる。
鮮やかに問題は読者の側に手渡されるのだ。(ひこ・田中

                
「世界の児童文学百選」(東京書籍)95,6