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ジェイムズ・バリーは『ピーター・パンとウェンディ』において、子どもの遊びの世界にネヴァーランドという具体的な形を与えたことで十分な評価を受けるべきだろう。だが、この作品から悲哀と郷愁を強く感じる人たちが少なくないのは何故だろうか。 「『大人になりたくない子ども』はあまりに早く大人にならなければならなかった男の着想である。」(『バリーの肖像』一九五五) これは晩年のバリーの秘書をつとめたシンシア・アスキスのことばであるが、早熟【傍点】によってバリーが失ったものは何なのか――。バリーにとって幼年時代に最高に幸福なものが母のひざのぬくもり(母性愛)と遊びの世界(ネヴァーランド)であったのは、彼の生いたちや作品から察しがつく。だからこそ早熟(成長)によって喪失していくこの二つの喜びを「ピーター・パン」において再現させようとしたのであろうが、同時に自身がくぐってきた傷み【傍点】【注】を土台にせずにはおかれなかったと思える。父母の会話によって「いやでも大きくなる」ことを知ったピーターは、「いつまでも小さい子でいて遊んでいたい。いつまでも母さんのひざに抱かれていたい」と思い、ケンジントン公園へ逃げていく。ピーターはサーペンタイン池(『ケンジントン公園のピーター・パン』に出てくる)やネヴァーランドでゾーッとするようなすごい遊びをいっぱいしたあと母さんのことを思い出して、空をとんでかえる。 窓には鉄の格子がはまっていました。中をのぞいてみると、お母さんは別の子を抱いて静かに眠っていました。/ピーターは「お母さん、お母さん」と呼びましたが、その声はお母さんには聞こえませんでした。小さい手で鉄格子を叩いても無駄でした。 (『ケンジントン公園のピーター・パン』) こうして、ピーターと人間の世界をつなぐ窓は閉ざされてしまう。いつまでも子どものままでいること(ネヴァーランドに住むこと)とひきかえに、ピーターは母のひざのぬくもり(母の愛)を失う。だが、子どもの日常にとってどちらも不可欠なものであれば、ピーターは人間の子どもにもどれない半端もの(半妖精)にすぎない。「ピーター・パン」を流れる悲劇性は、母のひざに抱かれて眠る子どものすばらしい幸福を、鉄格子を通して見ることを強制させられたピーターの設定に強く起因している。だが、ピーターは半妖精だとしても、決して現代の子ども【傍点】を越えた<美>の象徴ではなく、決して憐憫【れんびん】の涙を誘うセンチメンタルな存在ではない。バリーの描出したピーターは「気まぐれで、忘れっぽく、うぬぼれが強く、知ったかぶりをし、独善的でわがまま」であり、これはごくありふれた一般的子ども像である。「子どもが神にいちばん近い」として、生活に疲れた大人が手放しで讃美し、郷愁に酔いしれるような特別な価値が見出されるとは思わない。もし「『ピーター・パン』と同様『プー』(筆者注=A・A・ミルンの『クマのプーさん』)は子ども時代に対する大人の 郷愁を満足させる要素をもっていた」という『英米児童文学史』(研究社)の指摘が妥当なものであるとしたら、ネヴァーランドは成長によって失われるものではなく、形を変えて誰の内面にも存在しつづけるという発想がどこかで切れている【傍点】ためであろう。人間が根源的にもっている生きつづけたいという生命力は、食うためではなくネヴァーランド(内面世界)を広めたいという願望ではないだろうか。 バリーは、遊びと母のひざ(愛)への執着により、幸福であるべき幼年時代の断面(ネヴァーランドの生き生きした精神の世界)を鮮やかに再現してみせたわけであるが、もしより年長の子どもたちがさらに何らかの悲哀【傍点】(文学性とおきかえることは危険だが)を感じるとしたら、それは前述した母の愛から閉め出されたピーターの存在意義やネヴァーランドの発展性の問題と同時に、根本にはバリーの<時間>に対する捉え方に関連していると思える。つまり、変化に対する不安、滅びに対する永遠への願望と信仰である。 「おとうさんは、おかあさんのすべてを自分のものにしましたが、心の一ばん奥にある箱【傍点】と、あのキス【傍点】だけはだめでした。」 (傍点筆者) キスとは母の口もとに浮かぶ不変の母性愛の象徴であり、本文中に出てくる「ピーターはおかあさんのキスにそっくり」という表現は、子どものままで成長しないというピーターの永遠性、母性愛を受ける資格の非消滅性を象徴している。バリーが熱望するのは、愛や遊び(人生の最も幸福な時間)の不変性であり、この時間遊び【傍点】のなぞなぞを解いていけば、<キス→ピーター→幼児性→母性愛→永遠>となる。そして、いうまでもなく<愛>をしまってあるのが入子【いれこ】の箱【傍点】である。 ジェイムズ・バリーはピーターになることはできても、ピーターを抱きしめる母性(不変性)とは無縁なものである。ウェンディが子どものときピーターと同質に遊ぶことができ、かつ大人になってピーターの中にキス(かつての自己の幼児性)をみつけて、それを口もとにそっと浮かべていることができるのは、それは母性だけが許される、(子どものときに)抱きしめられ、(母親になって)抱きしめかえすという<愛の充足関係>に他ならない。ウェンディのみならず、それはジェインにもマーガレットにも可能であるが、ひとり大人になったバリー(父性)には不可能なものではなかろうか。半妖精半人間で半端ものの「ピーター・パン」は決して抱きしめかえす(母性愛する)ことのできない孤独な男ジェイムズ・バリーの無邪気であるが故に一層悲しい<分身>であるということができないだろうか。 最後に混乱を避けるため「ピーター・パン」の三種類の本について記しておきます。 『白い小さい鳥』一九〇二年 『ケンジントン公園のピーター・パン』一九〇六年 『ピーター・パンとウェンディ』一九一一年 (松田司郎) 【注】バリーはすぐ下の弟が生まれた時と、すぐ上の兄が亡くなった時、母の愛が自分だけのものでないことを知らされる。
世界児童文学100選(偕成社)
テキストファイル化岩本みづ穂 |
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