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ある朝起きたら新聞が来ていなくて、テレビは白い線ばかり映していて、いつもは車でいっぱいの国道がほとんどがらがら。鉄道も止まっていて、広報車が来て、「学校はお休みです」。そして、国道の向こうの噴水を見に行こうとしたら、歩道橋にはおまわりさんがいて、「ここは通れません」。…そのすべてが、「ピロピロ」のせいだというのです。でも、四年生の「アタイ」と弟の「マア」が、「ピロピロって何」と尋ねても、ちゃんとした返事はもらえません。「おとうさんもおかあさんも、ピロピロは自分たちに関係ないんだと、思いこんでいるようでした。だからわざと、なんでもわからないようにしていたのです」。数日後、「噴水のわきにギロチンができたらしい」と聞いて、絶対に自分の目で見たい、と思ったアタイは、マアをつれて電信柱によじ登り、アーケード街の屋根を伝って、築かれたバリケードを越えて行きます…「空は青いし、大人たちはいないし、これでギロチンがちゃんと見えたら、どんなにア夕イは幸福かしれないな」と思いながら。 「ピカピカのぎろちょん」は、「革命」とか「戒厳令」とか呼ばれるような状況の中、生き生きと動き回る子どもたちを描いた、異色の作品。子どもにとって、「カクメイ」などという言葉は本当に「ピロピロ」と同じに聞こえるかもしれません。でも、子どもは子どもなりに…知りたがらない一部の大人に比べると、よっぽど真剣に…その正体を知ろうとします。それも、「情報を聞く」という受け身ではなく、自分の手足を動かして、よじ登ることで。そして、そうやって動いているとき、客観的な状況がどんなに大変でも、子どもは幸せな気分になれたりするのです。この物語には、書かれた時代六八年刊)の匂いが濃厚に漂っています。 子どもの頃この本を読んだとき、「ピロピロ」が何の比喩かなどはむろんわかりませんでしたが、「大人が何かに気をとられている間の子どもの自由」の感じが、すごくぴったり来て、大好きだったのを覚えています。大人の世界との間の膜を隔てて大きなニュースがぼんやりと伝わってくるあの感じ、そして何かが変わり、自分も新しくなっていくような…。 最近また、いつ世の中が「ピロピロ」になっても不思議はない、ということが思い出されてから、時折この本のことも思い出しました。「ピロピロになれば子どもだって大変だ」という「事実」とはまったく別のところで、そういう状況下での子どもの豊かな生命力を描き出した、不思議な魅力を持った物語です。(上村令)
徳間書店 子どもの本だより「児童文学この一冊」 1996/9,10
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