ピー夕ー・パン

J.バリー

           
         
         
         
         
         
         
         
    
『ピー夕ー・パン』の成立はややこしいので、『児童文学事典』(定松正 東京書籍 一九八八)から、簡単に整理しておきます。バリーの自伝的小説『白い鳥』(一九○二)の中に『ピーター・パン』の話があり、次に舞台として『ピーター・パン 大人になりたがらない少年』(一九○四)が発表され、これが大評判になり、三十六年間毎年上演されますが、何度も書き直したので、その脚本が活字になるのは一九二八年。一方その間に『ピーター・パンとウェンディ』(一九一一)が出版されます。で、今回採り上げる『ケンジントン公園のピーター・パン』は『白い鳥』から独立して出版された一九○六年のもの。ということは、『ケンジントン』は元々一九○二年の作品ですから、一番古いピーター・パンとなります。
 作者のバリーは、マザコン・溺愛息子であるといわれるけれど、実は彼は死んだ兄の代わりとして溺愛されたわけですから、ありのままの白分を認められなかった子ども、望まれる息子を演じるしかなかった子どもであったとも言えます。おそらくそのことが、ピーター・パン像に反映しています。
『ケンジントン』の中で最も印象的なエピソードは、いったんは母親の元に帰ろうとしたピーター・パンが、でも公園での日々も楽しいなと迷い、もう少し公園で遊んでいようとしたため、その間に母親には新しい子どもができてしまい、彼の戻る場所がなくなっていたというものでしょう。それ以来彼は子どものままとなる。だからピーター・パンは、いつまでも子どものままでいたい存在の象徴として持ち出される事が多いのです。
 でも、ピーター・パン個人に身を寄せて考えてみましょう。彼は、公園での遊びと母親の子どもに戻ることの間でたった一度迷ったため、罰せられたわけです。その罰とは、誰かの子どもとして生きられないこと。窓には鉄格子がはめられ、家の中に入ることができない、閉め出されてしまったピーター・パン。つまり、「いつまでも子どもである」にもかかわらず家の中の子どもとしての居場所を与えられない存在。それがピーター・パン。
 この設走をひっくり返してみましょう。「家の中の子ども」としての居場所を与えられた子どもは、いつかは子どもであることを放棄しなければならない、ですね。これは大人となった私たちの多くがたどってきた道そのもの。ピーター・パンは、架空の存在ではなく、私たちのネガなんですね。
 ところで、子ども時代がどんどん長くなり、家の中の居場所より、ケイタイでのコミュニケーションの方が大切な現代の子どもたちはピーター・パンに近づいていっているのかも、ね。(ひこ・田中)

徳間書店 子どもの本だより 2000/01