ポーラをさがして

さな さもこ作

講談社 1997

           
         
         
         
         
         
         
     
 この本は、目次を開くと、ずらりと哲学的ニュアンスのこい小タイトルが並んでいる。「息をとめて、わたしをたしかめる」ユニークな遊びをする五年生のショーコとカナは、たしかに哲学スル子ども文学スル子どもといえるかもしれない。その名のとおり自由で個性的な『自由塾』へ通うショーコの目的は私立中学を受けるため。カナはよくない成績をこれ以上悪くしないため。夜、塾にいるときとその帰り道でだけショーコと親友になれるカナは、ショーコがあたりまえだと思っていることとはまったく違うあたりまえをもっている。夜遅くまで働く母を待つカナ、離婚寸前まできている不仲の両親と非行化した姉をもつカナの思考回路に、ショーコは一々驚き考えさせられる。理解ある両親のもとで平和に育ってきたが、生来内省的な性格をもつショーコと、境遇のせいか、大人を信じないカナのさみしさとしたたかさは、互いの内面を育みあう。二人は猫さがし依頼のポスターに出会うのだが、家庭の事情で塾の月謝が払えないカナは、その謝礼をめあてに猫のポーラを探しはじめる。ところが勉強することにはまるで無気力だったカナの、ポーラ探しにみせる熱意とその積極性。カナはショーコ とともにポスターの主である老女の家を訪ね、町中を熱心に探してまわる。そしてようやくそれらしい猫を飼っている偏屈者のハンコ屋をみつけ、むりやりに店を開けさせる知恵と行動には、カナの子どもなりの人生哲学がにじめでていてとてもおもしろい。またショーコは、ポーラ探しをきっかけに夜だけの塾友だちではなくなったカナと、昼間もともに行動することで多くを考えさせられ、「わたしをたしかめる」時を得る。結果、探していたポーラは二十年前にいなくなった猫であり、老女は痴呆のせいで過去を生きていたことが判る。二人の少女はこの老女との出会いによって老いというものへの理解を深め、カナも、いつしか謝礼めあてだけではなく、本心からの人情をも伴って、ポーラ探しに熱をいれてゆくくだりは圧巻である。
 ところがこの少女たちの言動に大きく関わっているのは、『自由塾』教師の平八郎先生である。大塩平八郎に傾倒しすぎていて塾生からそう呼ばれる彼は当然関西弁を使う。因みに夫人はテレサ先生。たしかに結構な思想と哲学をもっている先生は、尤もな理論を子どもたちに次々と言葉で語りかける。当然ショーコもカナもそれについて子どもなりに考え、身につけているのであろうが、私にはこの平八郎先生、大人の出番をちょっと間違うてはんのとちゃうかしら、と思えてしかたがないのだ。学校教育の是非がさかんに問われている今日、こうした自由な塾の存在は貴重ではある。だが社会批判や、勉強することの意味、真の自由の大切さについて、何でも言葉でいってしまう塾先生。ポーラ探しにおいても、せっかく子どもなりの知恵をしぼって考え行動しているのに、ずかずかと言葉で踏み込んでいく先生は、たしかに大人の出番を間違えている。むしろ、過去に大塩平八郎が開いた塾とはどんなものであったかを語り、彼がその思想と哲学を学んで生きている姿を、『自由塾』のあり方からもっと自然に子どもたちが学びとっていくならば、ショーコとカナの出会いや育みあいの物語が、さらに奥 深く描けたのではないか、と残念でならない。(持田槙子
1997/12
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