プリデイン物語(全五巻)

ロイド・アリグザンダー 作
神宮輝夫 訳

           
         
         
         
         
         
         
    
    
1 作品の構成
 「プリデイン物語全五巻を通して、主人公タランが活躍する。一巻ずつ独立して読みうる物語になってはいるが、一巻だけを取り出して読むことは、あまりすすめられない。順を追ってタランの成長の過程を辿っていき、最終巻までいって作品の全体像、タランの獲得したものを考えてみたい。『タランと角の王』は一九六四年に出版され、毎年一巻ずつ、五年をかけて完成されている。リアリズム児童文学が主流であったアメリカにおいて、この作品においてはじめて本格的なハイ・ファンタジーが出現したとされている。
 『タランと角の王』で物語ははじまる。カー・ダルベンのタランは、三七九歳の予言者ダルベンのもとで予言の豚ヘン・ウェンの豚飼育補佐として働いている少年である。タランは、今は農業に精を出している古強者のコルに剣術を教えてほしいと頼んでいるがとりあってもらえない。プリデインは、ドン家大王マースのもとに平和を保っていたが、角の王が動き出し急激に危険な状態になっていく。豚が逃げ出し森におっていったタランは、危機をギディオン王子に助けられる。アローン王の死の国アヌーブンに近い渦巻き城のアクレン女王のところで、王の手先の怪鳥ギセントとくり出した不死身(死者を魔法の釜にかけて生き返らせたもの。口がきけず、慈悲やあわれみの心をいっさいもたない)によって捕虜にされる。物語は次からつぎへと速いスピードで動いていく。地下牢に入れられたタランは、エイロヌイというアクレン女王のもとで魔法修業中の王女に助けられ、地下の王の墳墓から剣を持ち出したことで城がくずれ落ちる。タランとフルダー・フラム(吟遊詩人)、ガーギ(人間かけだものかわからない奇妙な生きもので、単純な思考と旺盛な食欲、すばらしい偵察力と忠誠心に特長あり) 、エイロヌイ(暗い中でも光る玉をもっている)で旅をしていく。かくれ谷で動物の平和郷に入り、その主メドウィンを知り、ヘン・ウェンと再会する。途中、湖の底の妖精の国でエイディング王と出会い、道案内として小人ドーリがきてくれる(この五人はずっと第五巻までタランの身近にいつもいる人物として活躍)。最後に角の王と対決し、ディルンウィンの剣の働きによって、王を倒し、タランも剣から出た光によって倒れてしまう。気づくとそこは、カー・ダスルの城でギディオン王子がいきさつを説明してくれる。またカー・ダルベンに帰ったタランは「ここにもどることだけが、もっとも強い望みでした。ところが、おかしな気持ちなのです。以前寝起きしていたへやにもどってみると、おぼえていたよりも小さいのです」という。あとに続く四巻への導入として、主な登場人物と舞台が紹介される。
 『タランと黒い魔法の釜』では、カー・ダルベンにプリデインの主要な人物を集めてヘモルガント王、スモイト王など不死身をつくりつづける黒い釜を破壊するための作戦会議がひらかれる。アヌーブ城の暗黒の門を押しいってみれば、黒い釜はそこにはなく、釜を求めて旅に出る。タランにことごとく反対する高慢なエリディル王子は自分でみつけると去り、詩人の長タリエシン??アダオンはアローンの狩人の犠牲になるが、ついにモルヴァの沼地にいるオルデュ、オーウェン、オルゴクの三人の魔女のもとに釜があることをつきとめる。アダオンの形見の代償として釜を手に入れ、運んでいく途中でエリディル王子があらわれ、手柄を自分一人のものにしようとするが、モルガント王の裏切りによって敵側にうつった釜の中に、自分の命を投げ入れることによって釜がこわれ、かけつけた味方によってモルガント王も滅びる。タランは、「わたしは、大人の世界にはいることを、あこがれていました。今わかりましたよ。大人の世界が、残酷なことや裏切り行為でいっぱいであることが。まわりの人たちをみんなほろぼしたがる人間ばかりであることも」と感じる。
 『タランとリールの城』は王女らしい王女になるためにモーナ島に帰るエイロヌイにまつわる話である。島には暗い影がさしていて、くつつくりに身をかえたギディオン王子と、フルダー・フラムがいて、モーナ島のルーズルム王につかえている侍従長マグが、アクレンと通じていることがわかる。用心していたにもかかわらず、エイロヌイがさらわれる。途中、薬によって巨大になった猫レーアンがフルダーのたて琴に魅せられてついてくる。カー・コルールのとりでの中にあるリール王家(エイロヌイはその最後の王女)の宝や魔法によってもう一度、力をとり戻そうとはかるアクレンのもとから、エイロヌイを救出する。エイロヌイは、光る玉黄金のペリドリンの力を、「あの光の中に、あなた方みんなが見えたのです。目で見たというのではなく、心で見たのです。そしてわたしに魔法を破ってくれとねがっていることがわかりました」という。アクレンの魔法がきかなくなって、とりでが崩壊したのであった。
 『旅人タラン』では、エイロヌイと結婚したいと考えるタランが、自分の出生を知るための旅に出る。願わくば、高貴な家の出でありたいと願うタランだったが、長い旅にもかかわらず、親を見出すことができず、結局、「わたしも今は、自分がだれだかわかりました。わたしは、だれでもない、わたしです。わたしは、タランです」ということを発見して帰ってくる。旅人タランの旅した自由コモットの国は、いわば自治領で、陶工アンローに代表される機械文明以前のコンミューンが描かれている。
 『タラン・新しき王者』では、善と悪の最後の戦いが描かれる。豚ヘン・ウェンの不思議な予言のあと、戦いをはじめようとするがその前にスモイト王のところで、マグの妖計にひっかかり捕えられてしまう。遅れてきたエイロヌイたちの力で救い出され、大がかりな陣営がカー・ダスルに召集される。味方と思っていた強力な王がアローンにつき、不死身がくり出してきて、城は落ちる。次の作戦として、不死鳥が守っていないアヌーブンへの奇襲作戦をたて、ドーリやメドウィンの動物たちの力をかりたりしながら、苦しい戦いをへて、竜の山に辿りついた。そこはアヌーブンの裏口だった。竜の頭のほそ長い岩に隠されていたディルンウィンを手にいれ、剣をぬくと、白い光をはなって、不死鳥が死んでいく。へびに変身したアローンをアクレンが見つけ、殺される。それをみてタランがへびを切りつける。アローンの最後だった。??をはじめとして多数の犠牲者を出して、やっと平和がよみがえる。しかし、アヌーブンの王が亡びたとき、ドンの子孫は、永久にプリデインを去るという定めがあり、永遠の命を得て常夏の国へ出立すると告げられる。エイロヌイに結婚を申し込み混乱したまま一夜を おくったあとでタランは人間にとどまるという決心をする。ダルベンは、タランがプリデイン全土の大王であり、それは、時の書にかかれていたと告げる。エイロヌイは、魔法使いの子に生れたのは、わたしのせいではないと、魔法を捨てたいといいだし、かなえられる。ふたりは長い年月を幸せにくらし、約束したつとめをすべて果す。
 事件は、矢継ぎ早に起こる危険や苦しみが強くならないうちに、何らかの解決がなされ、もりあがりを欠くきらいがある。ストーリーづくりに厚みがないのである。しかし、切れのいい文章にのって、ぐいぐいと読者をひっぱり、あきさせることがない。

2 ロイド・アリグザンダーのこと
 アリグザンダー(一九二四年)は、ジャン・ポール・サルトルの作品翻訳によって著作活動をはじめており、大人の小説もかいている。幼いころから、伝承文学の愛読者で、文学への志ははっきりしていたというが、一九六三年に『タイム・キャット』を創作してから、子どもに語るファンタジー(「子どもの中にある成長しつつある大人に話しかけたい 注」という願いから出ている)を書き出した。第二次世界大戦の時、軍隊の仕事でこの作品の着想のもとになっているケルト族の神話・古伝説マビノーギオンの舞台であるウェールズを訪れている。「プリデイン物語」が、作者の青年時代の軍隊で体験した多くの事柄を象徴的にあらわしているという事実と照らしあわせて考えると興味深い。アリグザンダーは、ファンタジーを現実を理解する一つの有効な方法だと考えているのである。

3 神話的叙事詩と現代のつぎ木
 タランは、一巻毎に成長しながら、ついには、プリデインの大王となる。神話の下敷きをかりて、新しい現代の神話をアリグザンダーは創造したわけであるが、どこが、古典の英雄とタランをわけるところであろうか。地下の世界も含む様々の冒険を経て、美しい乙女をえるというパターンや、予言のあったこと、育ち方など、成長のプロセスでは、古典の英雄の行為とほとんど変わらない条件を備えているといえる。
 相違しているのは、生れ方と死に方である。一つは、血筋ということの否定、これはエイロヌイのように由緒ある血すら捨てるということでも徹底している。「血筋については、これはどうでもよいことです。血筋はたしかに強く人を結びつけますが、ほんとうの人のつながりは、血縁とはまったく関係ありません。すぐれた人間とは、自らなるものであって、生まれではないことを教えられました」(第四巻)とタランがいい、予言者ダルベンは「わしには、たとえ教えたくても氏素性は伝えられなかったのだ」(第五巻)と、激しい戦いで亡びた民が赤ん坊だけを助けようとして森の木にかくしてあったのをみつけて育てたのがタランだと打ち明ける。結局はわからないし、わからなくてそれでよいとしている点である。
 もう一つの方は、古典の英雄の条件として、英雄の死という設定がある。それは、不死の命ともつながっているのであるが、タランは、自らの選択として、死ぬ運命にある人間にとどまるのである。
 ダルベンによると、ヘン・ウェンの予言の意味は「ディルンウィンの炎は消え、その魅力は失せる。人間は魔力をかりず、自らのさだめをあゆむ」(第五巻)ことである。タランがもちえた価値観からすると、「カ?くりでも、陶工でも、コモットの農民でもはたまた王でも自分だけのためより、他人のために骨折る人は、だれもみな英雄です」(第五巻)ということになる。何家に生れ、?に死ぬかということよりは、その途中、つまり、生命を燃焼させるプロセスや生き方の姿勢の方で英雄かどうか判断しようとする現代モラルにふれてくる。
4 タランの可能性と限界
 魔法や、超自然の生きものの活躍する世界において、タランは、自分にはないがまわりにある事物や生きものの魔力をかりて、一つ一つ危機を乗りこえ、成長していく人物として描かれていく。そのタランが、結末において魔力を否定し、一種の人間万能主義のようなものをうたいあげているのは、この作品の内包している大きい矛盾である。タランが旅に出て得たもの、それは、自由コモット民にみられるように人間を信頼することであって、自分は自分であるという確認あるいは、発見であった。もっとアメリカという国の命題としてはっきりいってしまえば、物質文明で築きあげたものをすべてはずして、向日的に人間をみてみると、やはり、根源には人間が存在しているのではないかということを語りたい時代とその背景が浮かび上がってくる。
 しかし、魔法の世界は、想像力が創りあげてきた、豊かで、植物や超自然のもろもろのものも含めて、からみあい交流している複雑で深く広い世界であって、人間はその一部にすぎないが、たまたま入りこめる世界であった筈である。この作品のテーマが、背景とそぐわない違和感が残る。
 プリデインが、新しい英雄タランと、明るく闊達なその妻エイロヌイ(アメリカの女性のもっているある面をとてもうまく写していて、他の作品には出てこない女性像ではあるが)にとって、自分達の力によって創造していく国にふさわしいかどうか考えてみると、どこか薄っぺらく、荒涼とした風景の中でみえていて、前途多難なようにしか思えない。(作品そのものが薄っぺらいのか、それを裏付ける筈のわれわれの生きている現代という時代の哲学の問題なのか、というところまで考えないといけないのかもしれない。)
 リアリズムからファンタジーへ変化したアメリカ児童文学の一つの方向を示した作品として、手法としての可能性と現代を解釈する方法としての有効性は、充分に立証されたものの、魅力ある人物像や実在感とふくらみのある別世界を通じて、人間性を回復したり、再認識することにつながる文学としての機能には、今一歩という気がする。おもしろく読んだ上で、疑問が残り、現代を考えさせてくれる作品である。(三宅興子

 注『子どもの館』七四年一二月号二四頁
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