|
1 はじめに映画のこと
別に映画の話を持ちだす必要はないのかもしれない。しかし、いいよいいよといわれて、ほんとうかなと見にいった映画の原題が Turning Point というのだから、なんとなく引き合いにだしてみたくなる。女性必見映画『愛と喝采の日々』……というだけなら、敬遠したのではないだろうか。 結婚のためバレリーナの道を放棄した女と、バレリーナであるため結婚を放棄した女が登場する。二人は二十年ぶりに顔を合わせる。 ……あの時、あなたはわたしをはめたんだろう。 ……いいえ、そうじゃないわ。 シャーリー・マクレーン扮する元踊り子と、アン・バンクロフト扮する現踊り子は激しいいさかいをする。 わたしはこの映画を見ていてひどく退屈したのだが、そして人もまた退屈するものだとばかり決めこんでいたのだが、同行の女房は、わたしのこの反応にいささかあきれた顔をした。どうしてなの。とてもよかったやないの。そういった。 わたしは、あれが、シャーリー・マクレーンとアン・バンクロフトではなくて、たとえば、ロバート・レッドフォードとジーン・ハックマンだとしたら、やはりあんなふうに二十年前のことを持ちだして、お尻を叩きあうだろうか。そんなことを考えていたのである。 結婚か、仕事か。時どきそういう「悩み」を読む。しかし、どういうわけか(理由・原因はちゃんとあるのだが)、男性がそうした二者択一の問題で頭をかかえこむ話は聞かない。たぶん、この地上のどこかに、そういう男性もいるのかもしれないが、それは顕微鏡で探さねばならぬほどのきわめてわずかな存在だろう。かりにそうした男性が発見できたとしても、それが、現代社会では「共通の悩み」や「共通の話題」とはなりえないのではないか。それほどに男性は、この問題から切りはなされている。「特別席」を与えられている。もし、世界の男性がこぞって、結婚か仕事か……と悩むようになれば、社会構造は変わるだろう。 今のところ、残念ながら、こういう人生の選択は女性に限られている。幸か不幸か、男性は妊娠しないからである。 「女性映画」という発想は、そのあたりから生まれる。わたしの女房などもこの映画に触発されて、そうだ、二十年前にこんな男を選ばなければと、感慨を新たにしたのかもしれない。 ところで、わたしのいいたいのは、映画の描いてみせる女性のまがり角のことではない。『愛と喝采の日々』というこの映画では、登場人物たちのまがり角はきわめてはっきりしている。あの時、あの出会いが……という形で記憶の中に収納されている。これは、バレエに関わる女性の物語だから、個人がバレエとどういう形で切れたか切れなかったか、その転機をきちんと示している。しかし、個人の転機はそれでいいとして、個人の関わるバレエそのものは、まがり角といったものはなかったのだろうか。もしこの映画が、個人ではなくバレエの転機を描こうとすれば、シャーリー・マクレーンやアン・バンクロフトのまがり角のように、適確にそれを示すことができたかどうか。わたしはこの映画を見ながら、実は日本児童文学の turning point といったことを考えていたのである。それも、一九七〇年代後半の「まがり角」といったものをである。 たとえば、この五年間に(一九七七年を含んでの過去五年間という意味である)、児童図書の出版点数はおよそ六千点に達した。絵本の出版点数はその二分の一にあたる三千点強である。もちろん、これは出版部数ではない。また「書きおろされた創作」だけの出版点数ではない。そこにはいわゆる「科学読物」や「伝記」の類い、「古典」、「名作」のリライトや復刻も含まれる。しかし、かりに全体の三分の一を「創作」と推定するなら。この五年間に、二千の新しい物語、一千のオリジナル絵本が作られたことになる。たぶん、それらの作家たちの中には、映画『愛と喝采の日々』とは違った意味で、自己のまがり角を自覚したものもいるだろう。問題はそうした個人の転機が、ひるがえって現代日本の児童文学のまがり角となったかどうかである。 わたしはそうした「思潮」の転機といったものが、児童図書の大量出版現象の中では、なかなか見定めがたいものだといっているのである。だからこそ活字と色彩の紙の広野の中を、ただの作品名羅列の時評が「批評」としてまかり通る。また、個々の作家の力投ぶりを賞賛することで「児童文学思潮」を語ったことに置き替える発想が通用する。もちろん、ひとごとではない。書きおろされた二千ないし三千の作品の中には、気づかれずして児童文学のまがり角を示したものがあるはずだ。気づかれずして……というのは、個別評価とはまったく別である。その力投ぶりは評価されるが、その評価が作家個人、作品それ自体にとどまって、現代児童文学の「まがり角」を示した作品として評価されていない場合を指している。 そういう作品があるのか。もちろん、存在する。すくなくとも、わたしは存在していると確信している。一九七四年(昭和四九年)に出版された灰谷健次郎の『兎の眼』(理論社)、絵本でいえば長谷川集平の『はせがわくんきらいや』(すばる書房、一九七六年)、『とんぼとりの日々』(同、一九七七年)がそれである。わたしはその横に、ちばてつやの漫画『おれは鉄兵』(一九七八年五月現在「少年マガジン」連載中)を置いている。この三者こそ一九七〇年代後半の「まがり角」をつくった「子どもの本」だと考えている。 わたしのこの考えは、いわゆる「あと智慧」のたぐいかもしれない。すくなくとも前二者の独自性をまっさきに認めたのは今江祥智だからである。かれもまた『ぼんぼん』(理論社、一九七三年)において、日本児童文学の大長編時代というまがり角をつくった。それにもかかわらず、わたしはいまだ「今江祥智論」を書いていない。その理由はいろいろある。客体視するには彼があまりにも近すぎる存在だから……といえる。わたしは「今江祥智を語る」よりも「今江祥智と語る」ことが多すぎるのだろう。しかし、今江祥智のことは横に置こう。 問題は、『兎の眼』から『おれは鉄兵』までが、なぜ turning point なのか……ということである。そういった以上、わたしはその理由を記す責任がある。それらを、多少とも「はやり」のいい方で、「落ちこぼれ」あるいは「はみだしっ子」の問題という言葉でひっくくることはやさしいだろう。しかし、こうしたレッテルはりほど、これらの作品の価値と魅力をおとしめるものはない。そこで、各駅停車的なまどろっこしさはあるにしても、わたしはそのひとつひとつに触れる必要がある。はじめに、なぜ『兎の眼』なのか……ということだが、まず私的感想から述べてみよう。 |
|