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一読してちょっと違いすぎるかなと思って、本をわきにどけようとした。でも、なにか気になってもう一度読みなおしてみた。そして、ほっとするなつかしさを感じた。 違いすぎると思ったのは、主人公メルルの暮らし方だ。メルルは画家の父さんと二人でキャンピングカーに住んでいる。メルルと父さんは、「かたつむりのように、家を引っぱってあるいて、好きなところに住める。」家は動かないもの、家のあるところにずっと住むと思いこんでいる私たちだが、メルルたちのような暮らし方だってあって不思議はないのだ。 メルルという名前はフランス語で黒ツグミという意味で、うっとりするようなそのさえずりを聞いた母さんが、黒ツグミのように歌のうまい子になるようにとつけた名前だ。その母さんはもういないし、メルルは歌を歌えない。歌は歌えないが、メルルは父さんのように絵が描けて、詩も作れる。しかも、頭の中で、作った詩にメロディーもつけられる。メルルの頭の中は、音楽でいっぱいだ。 メルルはもうすぐ七歳。父さんはメルルを学校へ行かせようと考え、ホレループ村に腰をおちつける。メルルは、学校の先生なら歌う方法を教えてくれるだろうと期待する。話は、歌えるようになりたいと願うメルルの、村や学校でのエピソードを追っていく。最後にメルルと父さんは海に向かって旅立つ。 キャンピングカーの家を始めとして、これほど読者に考え方の転換をせまる作品もめずらしいと思う。メルルの自然児的な発想や行動を見ているうちに、私たちの考え方のほうが次第に不自然に思えてくる。まず歌に関しては、メルルが歌うとどうしても音程がはずれてしまう。学校の先生も、歌の上手なマルガレートばあさんもメルルを歌えるようにはできなかった。それができたのは、川向こうに住むおじいさんのヘーゼルバルトさんだ。ヘーゼルバルトさんは、メルルに作曲を教える。歌えなくても「楽譜が書ける黒ツグミ」なら、「心の中に流れている曲」を人に聞かせられるのだ。 次に絵に関しても、メルルや父さんの発想はユニークだ。二人で退屈な牧草地を描いていて、メルルは牧草地に水色のゾウを描く。父さんもメルルの思いつきが気にいって、うす紫色のゾウを描く。メルルと父さんで壁を塗りかえたヘルベルトの家の寝室と子ども部屋は「おどろきの部屋」になる。メルルはプリムラの咲きこぼれる緑の野とこけにおおわれた森の大地を描き、父さんは天井に星がまたたき月が輝く夏の夕暮れを描いた。 プリムラの咲く野のとなりには、メルルが考えた悲しみの場所がある。メルルはこの一角を茶色、灰色、藤色、黒と悲しい色ばかりを使って塗った。子どもにだって悲しい時があり、その時はヘルベルトもここにきて泣けばいいというのだ。色と音はこの作品の特長で、大学で音楽とドイツ文学を学んだという、ドイツの作家バーデリーの持ち味だと思う。 最後に学校に関しては、メルルは子どもそのものの行動をとる。クモを放してやらなければと、授業中に教室を出ていったり、iという字を習えば、ハートやテントウ虫の点をのせる。普通のiを書きしょんぼりしているメルルを先生はおりこうになったとほめるが、これは、自らも教師をしている作者の先生に対する皮肉だろうか。 メルルほど自然を大事にする子はいない。芝生をだめにするからとタンポポをぬくことがどうしても納得できないし、強いところを見せようとヘルベルトが木の枝をおると、使いもしないのにひどいことをすると怒る。いたずらにカエルを殺したロスビータを、メルルは絶対に許さない。また、メルルはやさしい子だ。橋が遠くてヘーゼルバルトさんが疲れてしまうと知って、近くに橋を作ることを提案し、ヘルベルトや村の人たちと協力して作る。 冒頭で述べたほっとするなつかしさは、海に向かう結びもふくめてメルルの真の子どもらしさ、人間らしさからくるものだ。これは、物は豊かだが心は貧しいといわれる現代っ子、現代人が見失っている人間の原点だ。特に、メルルと同じ七歳ぐらいの子どもをもつ母親に読んでほしいと思う。(森恵子)
図書新聞 1991年5月18日
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