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本の面白さに本格的に目覚めたのは、私の場合、小学生中学年あたりだったと思います。親から与えられた本ではなくて、自分で本を選びたいと強く思ったのも、外国の作品の奥の深さやスケールの大きさに夢中になったのも、小学校中学年の頃。本の背表紙を見て、デザインや書体から同じ出版社の本を嗅ぎ出し(出版社名を見ればいい、ということには思いいたりませんでした)、つぎつぎと手を伸ばしはじめたのも、小学校中学年。「ナルニア」のように同じシリーズの場合は別として、生まれて初めて作家の名前を意識して、作家を追いかけて読んだのも同じ頃。 リンドグレーンは、私が生まれてはじめて追いかけた作家だと思います。たぶんまず、『長くつ下のピッピ』シリーズにはまり、『やかまし村』のシリーズ、『名探偵カッレ君』シリーズ、『やねの上のカールソン』…とその時通っていた文庫にあった本を、つぎつぎ読んでいきました。どれを読んでも面白くて、中学になっても友だちに大いに勧めていたものです。 ところが、リンドグレーンの本の中で、何が一番好きだったかというと、みんなに勧めていた「カッレ君」でも「ピッピ」でもなく、『ミオよわたしのミオ』でした。秋のある日、居間にねっころがって夢中になって読んでいた自分、そして、読み終わって、深い感動のあまり口もきけなかったことを今でもはっきりおぼえています。 でも実は、それから、だれにも「ミオ」のことは話しませんでした。そして、読み返しもしませんでした。好きな本は自分のものにしたくて、ねだって買ってもらうこともあったのに、それもしませんでした。あの感動が薄れるのが怖かったのでしょうか、まるで魔法のようにひきこまれたあの世界に、いつまでもひたっていたかったのでしょうか、今となってはよくわかりません。そのうえ、「今まで読んだなかで一番好きな本」のひとつで、かつ、「この本は大切」という気持ちが大人になっても心の中に深く根を下ろしていたのとは裏腹に、ストーリーはさっぱりおぼえていないのです。面白かったほかの本の筋はおぼえているのに。 そして、そうなってしまうと、もう「子どもの頃感動した」というぼんやりとあたたかな感覚が薄れるのが恐ろしくて、「ミオ」に手を伸ばすのはますますためらわれてしまっていたのでした。 でも、勇気をふるいおこし、先日ようやく読み返しました。一行読むたびに、磨りガラスの向こうから少しずつ少しずつミオの世界が見えてきました。この作品の持つ深さや面白さは伝わってくるものの、小学生のときに受けた感動は、甦りませんでした。思った通りといえば思った通りですが、少しさみしい気持ちになったのも事実です。 先日、海外の出版社の人に、「あなたの一番好きなリンドグレーン作品はなに?」と聞いたところ「ミオ」という答えが帰ってきました。そして彼女もこう言いました。「子どもの頃に一番好きだったはずなのに、筋をおぼえていないのよ、何故かしらね」と。(署名なし) 芝大門発読書案内「記憶のむこう」 徳間書店「子どもの本だより」2002年9-10月号 より テキストファイル化富田真珠子 |
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