モモ


ミヒャエル・エンデ:作
大島かおり:訳 岩波書店 1973/1976

           
         
         
         
         
         
         
    
 ヨーロッパのとある町。円形劇場の廃墟に一人の女の子が住み着きます。素性も名字も判らない。名前はモモ。それだけ。でも、やがてみんな彼女に魅せられいきます。というのはモモには人の話に耳を傾けるという才能があり、彼女の前に出ると大人は思いの丈を全部吐き出して素直になれるし、子どもは楽しく遊べるのです。
 ここまでのエピソードで私たちは、彼女が無垢な子どもとして物語に登場してきたのがわかります。どこにも所属しないこと。そして、他者の思いをそのまま受け取ってくれること。白紙な子ども。
 さて、モモがどんな子どもかが語られた後、物語は本題に入っていきます。
 時間泥棒が現れ、大人たちに、「あなたはこれまでどれだけ時間を無駄にしてきたか」を説く。毎日年老いた母親のところに出かけて話をすることで無駄にした時間、車椅子の友人に本を読んであげることで無駄にした時間。それらを節約すれば将来ゆとりのある時間をもてる。時間銀行はそれを預かり、利子までつけてあげます、と。大人たちはこの誘惑に引っかかっていく。無駄な時間を省いて、仕事本意で、忙しく、忙しく、将来のゆとりのために・・・。ここで物語が何を射程においているかは明らかになります。近代文明に対する警鐘です。「時は金なり」への批判ですね。この「時は金なり」を格言として書いたのは十八世紀中頃のフランクリンですが、そうした考え方はそれ以前、中世から近代への移行期から芽生えていて、近代的価値観を表す物の一つです。
 無垢な子どもモモは、それに抗する存在として配置されるわけです。とても判りやすい構図です。だから、核の危機(まさに、「時間がない!!」ということ)が叫ばれた時代、多くの指示を集め、ベストセラーとなったのはご存じの通り。
 しかし、この構図は「?」だと私はずっと思っています。というのは、確かに「時は金なり」は、近代的価値観の代表なのですが、「無垢な子ども」という価値観もまた近代的なものだからです。ぶっちゃけていえば、「時は金なり」と「無垢な子ども」は共依存しています。「時は金なり」に疲れたら「無垢な子ども」を持ち出し、「無垢な子ども」をクサイと思ったら「時は金なり」が現実として披瀝されるという風に。『モモ』はそうした価値観から脱してはいません。
 時間泥棒に奪われた時間を取り戻すためにモモは活躍するのですが、そのドラマを盛り上げようと作者が使った設定は、世界を救うモモに残された時間はたった一時間! というもの。彼女の導き手であるカメのカシオペイアは言います。
「ジカンヲ ムダニスルナ」!
 モモにとっても、「時は金なり」なのです。(ひこ
徳間書店「子どもの本だより」2001.01/02