モモちゃんとアカネちゃん
全六巻

松谷みよ子・作 菊池貞雄〜伊勢英子・絵
1964年7月〜92年4月、講談社

           
         
         
         
         
         
         
     
※それが幼年童話であると主張すること

 『ちいさいモモちゃん』(64)。『モモちゃんとプー』(70)。『モモちゃんとアカネちゃん』(74)。『アカネちゃんとお客さんのパパ』(78)。『ちいさいアカネちゃん』(83)。『アカネちゃんのなみだの海』(92)。
 三十年近く書き続けられた全六巻のタイトルをこうして眺めてみるだけでも、私たちは一つの情報、このシリーズの関心がモモちゃんからアカネちゃんへ移って行く様を知ることができます。各巻に収録されている二十編前後の短編たちをカウントしてみても、しだいしだいにモモちゃんのエピソードが減り、アカネちゃんのそれが増えて行くのが確認できるでしょう。『ちいさいモモちゃん』で始まったこのシリーズがモモちゃんを主人公とし、彼女の成長を軸とした家族物語であれば、こういった事態は生じません。アカネちゃんはあくまでモモちゃんの妹としてあるはずです。ところが実際は、アカネちゃんの誕生以降、モモちゃんは、アカネちゃんの姉という位置に収まっていきます。
 主人公はモモちゃんではない。が、アカネちゃんでもないでしょう。
 事典をみると、『ちいさいモモちゃん』は「幼年童話に新風を吹き込」(児童文学事典・西田良子)み、『ちいさいアカネちゃん』は「幼年童話がタブーとしてきた両親の離婚をメルヘン風に描いて、幼年童話に新たな地平を開」(日本児童文学大事典・西田良子)いたもの。それで、幼年童話の項目も読んでみると、「幼児・幼年期(就学前〜小学一・二年ごろ)の子どもを読者対象とした文学を幼年童話と呼ぶ」(児童文学事典・萬屋秀雄)と記されています。これらに、各巻のプロローグの言葉、例えば『ちいさいモモちゃん』の、
<ある日ちいさなぼうやがママに手をひかれて、やってきました。「モモちゃんのおうちはここよ。」ママがいいました。「モモちゃん」のおはなしよんだら、モモちゃんにあいたくなって、あそびにきてくれたんですって。みなさんも、モモちゃんと、なかよしになってくださいね>
 などを重ね合わせると、このシリーズの主人公(?)は「幼年」であるといってもいいでしょう。だからモモちゃんが幼年から遠ざかり始めると、妹のアカネちゃんが中心部に位置付けられていく。この「幼年」へのこだわり。それは、このシリーズが幼年童話であることを、繰り返し主張したいかのようです。

※「幼年」ということ

 ところでこの「幼年」とは何か? ここでもこのシリーズは自らが幼年童話であると強調すべく、その典型的な事例を提出しています。人形を採用した単行本の表紙、四巻目までの菊池貞雄と五巻目からの伊勢英子の挿絵。それらが表現する幼年(モモちゃんとアカネちゃん)の姿をご覧ください。そこにあるのは、無垢純粋保護したくなるもの、愛しいもの、以外の何物でもありません。つまり、私たちが近代以降手に入れた/必要とした、ロマン主義的「子ども像」。
 基本的に幼年童話のアイデンティティはこの「子ども像」にあります。主人公である子どもも、読者対象の子どもも、この像を想定しています。しかし、現実の子どもはたとえ幼年期であれ、そのような子ども像と完全に合致するはずもなく、ようするに主にそれは、私たち大人が欲している想像上のものといってもいいでしょう。ですから、幼年童話を読む、または読み聞かせられる子ども読者がそれから何を得るかはともかく、大人にとってのそれの存在価値は容易に想像できます。「無垢純粋保護したくなるもの、愛しいものであるはずの彼らを育てる作業は貴いものである」を物語りの形で保証することです。もちろん、現実的には、その作業の具体的な部分を担っているのはほとんどが母親でありますから、彼女たちが母親業に専念することの正しさを保証するわけですね。
 幼年童話、それはある意味で、ジェンダーに関するイデオロギィ装置なのです。母親である女よ、無垢で純粋な子どもに奉仕することはとても意義のあることなのだ、です。この母と子の一見幸せに見える関係が、限りなく内閉したものであることはわざわざ指摘するまでもないでしょう。

※物語の欲望

 さて、このシリーズは、そうした幼年童話であることを強調しているわけです。しかしもちろんのこと、わざわざ強調するのは、このシリーズがそこから逸脱したものであるからです。つまりこのシリーズは、幼年童話を偽装している。偽装することで、幼年童話がイデオロギィ装置として働くのを内部から解体する。それが意図的であったかどうかは分かりませんが、結果的にそうなっています。
 たとえ幼年が奉仕を求めようと、どこかへ預けて働く女がいること、幼年にとって幸せの保証であるかもしれなくとも、別れるときは別れてしまう母と父がいること、幼年を保護し庇護する責任があるはずの親が、死神と知り合いであること。それらを描いたからこのシリーズが凡百の幼年童話より優れているわけではありません。そうではなく、それらの事実情報を幼年と分かち合うことの可能性を信じて疑わず、どのように分かち合うかを描くことに物語が専念していることが、重要なのです。だから、このシリーズは内閉せず、開かれています。モモちゃんやアカネちゃんの無垢性がママを縛り付けはしませんし、ママの慈愛が二人を押し潰しもしません。
 今でもこのシリーズは新しい。と同時に今でも新しいということは、私たちの社会が今でもこのシリーズに追いついてはいないことを示してもいるわけです。(ひこ・田中)

児童文学の魅力 日本編(ぶんけい 1998)
テキストファイル化富田真珠子