物語にみる英米人のメンタリティ

谷本誠剛


大修館書店 1997


           
         
         
         
         
         
         
    
 『英語の教科書』が持つ無味乾燥というイメージを、谷本誠剛の『物語にみる英米人のメンタリティ』は見事に払拭してくれた。
 本書はそもそも英語雑誌に連載されていた英語をめぐるエッセイであり、主に大学生向けの教材の英文を対象とし、そこから引き出される「読み」が示されている。考えるという行為は、手足を動かすのと同じように、とりたてて意識しなくてもできると思われがちだが、よく考えるためには見る目をもつことが必要である。本書にはそうした目をもつうえでヒントとなることが記述されており、英語教師だけでなく、一般の人にも興味ある内容となっている。言いかえれば、著者の谷本は、英語を学ぶことが、単語の意味を覚え、文章を訳すことに終わるものではない、ものごとを考えるために役立つ道具となりうると、述べている。
 わたしが注目したのは、児童文学を専門領域のひとつとし、その方面の著書も多い谷本が、児童文学での知見を活かしている部分である。谷本は一九八八年刊の『児童文学とその英語』(大修館)の編著者だったが、本書第二部の「日英英語比較英文構成論」も、その延長線上にある仕事といえるだろう。さらに「英語の思想・英語の文化」を扱った第一部にも、児童文学をめぐる経験が随所で反映している。一部四章で英語のもつ抽象性にふれている個所などもそうだ。たとえば谷本は「客観観察という現実的な次元と、超越という超自然の現実が、同じ思考の方向性にある」といい、英語圏のファンタジー文学が現実を超えながら写実性を保っていることと結びつけている。これは英語圏のファンタジー文学を読んできた経験からくる発言であろう。ただし詳しい説明ぬきで、そうした発言だけが提示されていることには若干の物足りなさを覚える。ことに動物文学の「擬人化」をめぐる部分や「北風」の出てくる話などは、実際の作品を知らない人には唐突に映ってしまうだろう。
 興味深かったのは、英語の教科書にも感動のある教材を求める傾向を、英米人と日本人の認識方法の比較から説明している一部三章や、英語がレトリックと不可分であることを示している五章・六章だ。これから連想されるのは、学生によく見られるある種のレポートスタイルである。わたしは感想文を脱しないレポートに物足りなさを覚えることが多かった。でも谷本の考察のおかげで、主観に偏るのは、レトリックを使って客観的な説明する意識に乏しかったからなのかと、妙に納得したのである。
 一般的な事柄で同感できるのは、国際化に関する記述であろう。国際化イコール海外進出という議論は論外としても、国際化とは、たんに英語で外国人と会話することでないはずだ。著者は、領土の所有などをめぐる諸国間のせめぎあいという原義の用法を説明したうえで、外にでていくことだけが、国際化ではなく、隣り合わせに住むことが国際化の方向になるだろうと指摘する。必要なのはマナーだけではない。そもそも他人に関心をもつことだ、という発言は、耳が痛く心に響いた個所でもある。「英語」の勉強が広がりをもつか否かは、やはりわたしたちにかかっているのだ。(西村醇子
読書人 1997/05/30