|
なぜ、わざわざ大人が子どもの本を読み、論じるのか。それは子どもの本が「何かしら魔力を秘めており」「潜在的で、有意義で、そして危険」だからである。子どもが直観で本を選ぶとき、大人は言語にし、外部に働きかける力にしなければならない。英米の現代児童文学作家と、その作品を論じたリーズの本書もまた、そうした試みのひとつだ。 十八人の作家はピアス、ガーナー、ボーデン、コーミアなど、日本でも知られている顔ぶれがほとんどだ。(ジル・チャーニーとロディ・サドベリだけは日本で未紹介。)だが、これらの作家に関する本格的な研究書の翻訳は今までなかった。日本で出版される英米の作家研究は、キャロルやミルンなどの一部の有名作家に集中しているからである。(日本人による評論集となると、さらに少ない。) どの章も作家評伝ではなく、あくまでテクストに則した読みになっている。すなわち、高い評価を受けている作家を見直し、忘れられた作家を再評価し、どの作家にも正当な評価をくだそうというのである。イギリス人であるリーズがアメリカの作家で高く評価しているのは、ル・グウィン、カニグズバーグとフォックスの三人である。 わたしは最初の二人はともかく、フォックスに関しては、作品に漂う暗さが好きではないため、やや意外な気がした。だがリーズは題材こそ『どれい船にのって』を除くと、他の現代アメリカ人作家の領域と何ら変わらないが、「筋の組み立て方と、英語という言語の使い方が他の追随を許さない」という評価をおこなっている。 リーズは作家たちの文体と性格描写、物語としての技術にくりかえし言及している。それは本の価値を査定するときに何よりも欠かせない項目なのであるが、リーズは作品から透けて見える価値観をも問題にする。 だからリーズがジュディ・ブルームを批判するのは、英語の質、人物の描き方、語りの展開が陳腐だというだけでなく、若者のために書く作家として必要な若者の精神的実像を知らなさすぎることも理由なのである。(その点ル・グウィンは一流だという。) 通常高い評価を受けているジル・ペイトン・ウォルシュに関しても、盲目的な追従はしない。質的に安定していない点や、その歴史小説が「人生観を危険で手に負えないほど単純化」し、「実際にはもっと不快なものであったはずの過去をやわらげ」ている点を批判しているのだ。 これらの論点に共通するのは、定評を鵜呑みにすることが作家の欠点を隠すだけでなく、本当の良さを正しく計り損ねるというリーズの姿勢だ。これは評論一般に関する基本姿勢として学ぶべきものだ。 一九八十年に出版された本書だが、決して古びていない。それだけリーズの批評眼が確かだったのである。故人であるE・B・ホワイト(一九八五年没)は別として、作家たちはその後も作品を発表しつづけている。だが見たところ、リーズの批評が覆るような方向で活躍している作家は見当たらない。せいぜい、ペネロピ・ライブリーが大人の本の作家になり、ル・グウィンがアースシーの四巻目を追加したことが、気になるぐらいだ。望むらくはアン・ファインやヴァジニア・ハミルトンなども取り上げていてほしかった。 なお、一九八〇年以降の各作家の活動に関しては、訳者が作家紹介で補ってくれているのがありがたい。(西村醇子)
読書人 1997/11/21
|
|