森に消える道


ブロック・コール作


中川千尋訳 ベネッセ・コーポレーション 1987/1992


           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
     
 サマーキャンプで他の少年たちに裸にされ、島に置き去りにされたハウイ。小屋を見つけると、中から少女の泣き声。「入ってきちゃだめ!」。彼女、ローラもまた同じめにあっていたのです。これはとても卑劣ないじめだから、二人は島を脱出してもキャンプには帰ろうとはしません。ローラのママがやってくる参観日まで、二人の逃避行が始まります。
 家族というテーマとは一見なんの関係もなさそうなこの物語。けれど背後にはそれが横たわっています。
 使われていない別荘で服を、トラックから小銭を拝借(?)したのち、ローラが家に帰りたいとママに電話を掛けると、何が起こったかを説明する前に、「ママだって、あんまりすきじゃない人とも、なんとかつきあっているのよ。わかるでしょう?」と言われてしまう。このキャンプに参加したのも、「社会性の発達が遅れている子らしいから」です。「ママとあたし、話が通じない」と思っているローラ。
 一方ハウルの場合、彼が何かをしでかしても怒るでなく叱るでなく、「うちの親は、がっかりするだけ」。両親は、「この息子をどうあつかったらいいのかわからない」。だからハウルは、「両親の生活にじぶんの居場所を見つけられない」と感じています。
 どちらの親も、子どもを愛していないわけではありません。なのに子どもとの間にできる溝。その原因は、彼らがあまりに「親」であろうとすることにあります。ローラのママはローラの言葉に耳を傾けるよりまず、親として子どもをどう育てるべきかに気持ちが向かっています。ハウルの親も同じです。ただし、彼らの場合はその「どう」がわからず立ち止まっているのですが。
 この二人が、いじめのせいでとはいえ丸裸で出会うのは、象徴的。彼らはまるで、おのおのが抱えている関係性を脱ぎ捨てた状態で、互いと向き合っているかのようです。そこには「どう」はありません。後にローラは言います。「あたしたち、お互いに面倒をみてるの。だからずっといっしょにいるの」。関係を説明するのにこれほどわかりやすい言葉はない。「どう」するかの前に、お互いを必要としていること。これって家族にもそのままあてはまります。というか家族を丸裸にして最後に残る核です。
 青臭い物言いですけれど、たまにはそんな丸裸な気持ちを確かめてみるのも悪くはない。もちろんこれは、それが失われたときには、家族でいる必要はないということでもありますけれどね。
 とてもピュアな物語です。(ひこ・田中


「子どもの本だより」(徳間書店)1997年7,8月号