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湾岸戦争が終わってほどない。幸いにも、こんどの戦争には、核兵器は使用されなかった。もし使われていたら、核戦争の本など空虚な絵空事になってしまっただろう。いや、そうともいえない。核戦争が起こったことを前提とする他の作品ならともかく、題名の「もし冬が来たら」の冬は「核の冬」を意味するものの、本書では核戦争は起こらない。核戦争の危機のなかで、生きるとは、家族とは、幸福とはなど、人生のさまざまな問題が問われるのだ。 五月の金曜日、世界は突然核戦争の危機に襲われる。日曜日の夜八時までに、国内からすべてのアメリカ軍がひきあげなければ、ベルドゥラの新政府はアメリカに核ミサイルを発射するというのだ。十六歳の少女メレディスと少年バリーは、高校のテレビでアメリカ大統領のこの危機の発表を聞く。 ストーリーは、めりはりがきいている。学校から帰ったところで恋人どうしである二人の家庭が紹介され、次に金曜日の夜、一緒にいる二人の様子がしめされる。そして、二人がそれぞれ土曜日をどうすごしたかが語られ、最後にまた二人一緒にいる日曜日の夜明けがしめされる。『あたしだって友だちがほしい』をはじめドキッとさせられる作品が多いリン・ホールだけに、作中人物の気持ちの描きかたは鋭い。 メレディスの両親は別居している。父親のマイクは農場をやり、母親のリーは獣医を開業している。メレディスは母親とくらしている。バリーの両親は一緒にいるが、母親は無気力で父親は近よりがたく、メレディスほど両親と気持ちが通じていない。バリーには一人息子として両親から期待されているという重圧がある。また、小さいころ一度やりかかったこともあって、自殺にあこがれを抱いている。メレディスはそんなバリーにもうひとつ頼り無さを感じ、愛しているといえずにいる。金曜日の夜も、メレディスは赤ちゃんがほしいと思うほど生に執着をおぼえるが、バリーは苦しむ前に死にたいという。 土曜日、メレディスは父親に会いにいき、バリーはダウンタウンへと車を走らせる。ここでストーリーは二つにわかれる。メレディスの側では、家族のあり方が問われ、バリーの側では生きる意味が問われる。 メレディスの両親は憎みあって別居しているのではない。マイクが会社をやめて農場をはじめるとき、リーは獣医としての生き方をすてることができなかったのだ。土曜日の夜、マイクとリーとメレデイスは三人ですごしながら、いかにおたがいが大事な存在であるかを実感しあう。しかし、それでも別居は続きそうだ。家族と自分の生き方、--愛しあい、相手を尊重すればするだけ、重い問題だと思う。 子どもをもつ親として、私にはメレディスよりバリーのほうが心配だった。子どもに死なれたらと、考えただけでもたまらない。危機に際し、なくなっても惜しくないようなきたないもの、醜いものにであいたくてダウンタウンにむかったバリーは、コンクリートのがらくたの空き地を公園につくりかえようとしているおばあさんに会う。おばあさんはバリーの母親はぜいたく病だといい、自殺したいというバリーを「金持ちのだめガキ」ときめつけ、「人生は最後まで投げだしちゃいけない、人生は自分で切りひらいていくものだ」という。バリーのなかに生まれてはじめて生きる意欲が生まれ、バリーは未来を奪われたくないと思う。 日曜日の午前になって、核戦争の危機は去る。メレディスを訪ねてきて、ダウンタウンのおばあさんのことを熱っぽく話すバリーに、メレディスははじめて愛していると告げる。無事に生きられることの素晴らしさを感じながら二人して夜明けをむかえるラストシーンは美しい。 核戦争の恐怖のもとで人間の生き方を問いなおすこの作品が書かれたのは、一九八六年で五年前だが、翻訳は湾岸戦争の今、絶好のタイミングで出された。(森恵子)
図書新聞 1991年4月13日
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