ムーミンの哲学

瀬戸一夫 勁草書房 02・6

           
         
         
         
         
         
         
    
 書名だけ見ると、トーベ・ヤンソンの名作、『ムーミン』シリーズに込められた哲学的思考を解読してみせる著作のように読み取れるが、じつはそれほど平板ではない。ほぼ三十年前、毎週日曜日の夜七時半から、フジテレビの「カルピスまんが劇場」で放映されて、その主題歌と共に圧倒的な人気を呼んだ、虫プロダクション製作のテレビアニメ版『ムーミン』のエピソードと重ねながら解説する、じつにユニークで本格的な哲学入門書であり、アニメ版ムーミン論でもあるのだ。
アニメ版ムーミンは、一九六九年一〇月から翌年の一二月まで、六五話放映され、その人気を受けて、七二年一月から同年末まで、さらに五二話が放映されている。おそらく著者は、少年時代に毎週放映されたムーミンに、心を動かされたのだろう。「原作を遥かに凌駕するほどの深い内容をもっていた」と著者はいう。「哲学はあくまでも触媒であり、内容のあることを与えてくれるのは、けっして哲学そのものではない。内容にあたるものは、わたしたち自身の側に秘められた、イマジネーションと想像力である」という著者は、アニメ版ムーミンに創造性の宝庫を見いだし、その後発売されたビデオ版をもとに、全一一二話の中から八作品を詳細に紹介しながら、「哲学解説としてのムーミン論」を執筆した。それが、この本である。
 哲学がわかる本というような著作が、たくさん出版されているが、哲学にとって、それはあまり問題ではない。哲学によって、何がどの程度わかるかが問題なのだと、著者は言う。そこで、アニメ版ムーミンのストーリーにそって、現場感覚で哲学が対象とする命題にアプローチしていく。それがなかなかエキサイティングで、読み手を圧倒する。
 第一章の「贋物と本物」では、「ひこう鬼 現わる」という最初のシリーズの二九話を紹介しながら、西洋哲学の始まりから、その先駆者たちの偉業を解説する。赤いシルクハットに赤マント、黒い魔法の杖を手に空を駆け巡る、「ひこう鬼」がムーミン谷にやってくる。彼はルビーの王様をさがして世界中を飛び回っているのだが、ムーミンが夕日にかざしていたビー球を目にとめ、それがルビーの王様だと思って譲渡を迫る。著者は、そこでの物語展開をつぶさに紹介しながら、ものごとの理解の背後に潜む先入観の洗い出しと、真相に迫る思考様式にアプローチしてみせる。
 第二章「理想と現実」では、新シリーズの四三話「アリオンのたて琴」を題材に、過去と現在という時間概念の認識から、過去の支配力を超えたところから、眼前の現実に挑み、未来を創造する突破口を物語の中に読み取ってみせる。新シリーズの六話「おちてきた星の子」では、「希望と創造」と題して、トマス・アクイナスの業績などが解説され、一二話「鏡の中のマネマネ」では、「他人と自分」をテーマに、存在論が展開する。二一話「花占い大事件」では、ピタゴラスから始まって、フッサールやヴィトゲンシュタインの哲学が紹介されるというように、アニメ版ムーミンの物語を素材に、古代から近現代の哲学の真髄が、鮮やかに解説されていく。
 宮崎駿の『千と千尋の神隠し』が、ベルリン映画祭で金熊賞を受賞するなど、日本のアニメに対する国際的な評価が高まっている。海外での、日本のアニメやマンガに関する研究も盛んだ。しかし、アニメに限って言えば、そこで対象とされる作品は、若者文化として話題になったタイトルや宮崎アニメなど、比較的限られたものに集中しているのが現状である。
一九六三年に国産テレビアニメとして、手塚治虫が『鉄腕アトム』シリーズを製作して以来、おびただしい数のアニメ作品が誕生し、その時々の子どもたちを魅了してきた。ムーミン同様に、子ども番組として製作された多くの作品の中には、作り手の深い思索やメッセージが込められているものが少なくない。幼児から楽しめる作品の中に込められた哲学的思索を読み解き、そこから哲学の真髄に迫るという、『ムーミンの哲学』の画期的な試みの延長上に、日本のアニメ文化に対する多様なアプローチを期待したい。(野上暁)共同通信