六つのガラス玉

舟橋靖子・作
上野紀子・絵 1981年3月、あかね書房

           
         
         
         
         
         
         
    
    

 僕が舟橋靖子という作家に出会ったのは、一九七九年に出された『とべないカラスととばないカラス』(ポプラ社)でだった。この作品は確か「わたしの動物記」といったシリーズのノンフィクションというか、長いエッセイのような雰囲気の作品だったが、僕がおどろいたのは、この作者が殊更に「子ども」を仮装したり代弁するのではない、むしろ大人や子どもといった枠を取り払った感じの不思議な語り口=文体を持っているという点だった。大人の作者がきわめて自然体で語っているようで、しかもそれが子どもの読者の心に(も)ほぼまっすぐに届くであろうと思われる稀有な文章だと思った。この印象は、比較的最近の代表作である『亀八』(一九九二、偕成社)に至るまで基本的に変わっていない。もっとも、これに近い印象の文体は、大人の文学の作家が子どもを描いた場合に、見られないわけではない。しかし、それはやはり大人の感覚で再構成された子どもの心情という感じで、どこかできすぎている。
 さて、『六つのガラス玉』である。六つの短編からなるこの作品集のタイトルを名づけたのが作者自身かどうか定かではないが、このタイトルは「功罪」相半ばという感じがする。ここまであえてその言葉を使わないできたが、舟橋の文章の持つ「透明感」は、確かにこうした名づけに誘うものだ。だが「ガラス玉」という言葉は、作品の世界がその中に封じ込められているようなイメージを思わせ、この短編集に盛られた作品たちの
茫漠とした「広がり」のベクトルが消されてしまうようにも思える。
 六つの作品の中で、例えば「椅子」は、登場人物の関係などが比較的くっきりしている方の作品である。主人公のえつ子は母親から毎日のように様々に苦情を言い立てられている。振るわない成績のこともあるが、それ以上にその生活態度、可愛げのなさといった言わばえつ子であること自体が母親には不快に受けとめられている―少なくともえつ子にはそう思える。そして、それを強く感じさせるのが、えつ子とは何もかも正反対の弟の存在だ。えつ子は自分が時々椅子になっている感覚に身を委ねる。友達といる時、母親の説教を聞く時、自分は自分でなくなり、一方でその時ほど自分自身でいることはない。この作品では、やや唐突な感じを受けるほどに「解決」を予感させるラストが呈示されるけれども、眼目は椅子でいることの快感、怖さ、哀しさに共感できるかどうかだろう。その意味では、こうしたタイプの作品は、事実反応型、ストーリー反応型の読者には向いていない。
六つの中でポピュラーな作品といえば、冒頭の「かめやせんべい」、そして国語教科書に採用されている「やい、とかげ」だろうか。僕がこの短編集の中で一番好きなのは、やはり「かめやせんべい」である。<ぼく>がおやつに食べたせんべいを包んでいた「晴れた空色の紙」。まずはお姉ちゃんがお使いに行く時のメモのために四分の一が使われ、そして最後の四分の一は…、という風な、上質の映画もしくは舞台を思わせるようなシュールな展開。あるいは、印象派の音楽のような循環的な味わいというべきか。しかし確かに文章によってしか表現しえない一つの世界がここにはある。「児童文学」というよりは、新しい形での「童話」という文学形式が実現されているようでもある。
 さて、最初に書いた「椅子」とは逆に(とはいっても、あくまでも便宜的な比較にしかならないが)作品の輪郭というか、状況設定が曖昧な雰囲気の作品(つまりは、もっともこの短編集らしい作品とも言えるが)となれば、二つめの「林檎」あたりだろうか。この作品の大半は、かぜをひいて寝ている主人公の少女の夢の話で、ストーリーと呼ぶべきほどのものはないといって良い。夢の中で、少女は六年前に父と雪の道を歩いていった田舎の祖父の法事の時のことを追体験している。この父も今は死んでしまったらしく、この夢は何やら喪失と浄化のイメージに溢れている。作品の冒頭で、風邪のベッドからぬけだした少女は冷蔵庫からりんごを一個とりだして、夢の導入でこのりんごがどんどんふくらんでいき、最後目を覚ました少女は、母親がりんごを刻む音を聞いている。こうしたきわめて象徴的な手法の作品を一人称で書くというのは、自身の文体というものをかなりに身に寄せている書き手でなければできない技で、気がついてみるとこの短編集の六つの作品はいずれも一人称で書かれているのだった。中でも「林檎」は、「わたしは」「わたしが」という主語が丹念に繰り返されていて、ほと んど翻訳調といっていいくらいだ。しかし舟橋靖子の一人称は、前にも書いたように、作者が子どもを仮装するためのものでは断じてなく、子どもという比較的見えやすい心(魂と言い換えたい気もするが)を軸におきながら、<わたし>とまわり、<わたし>とだれか、<わたし>とわたしを取り巻く様々なものたちとの関係づけという、人間にとってのもっとも根源的なテーマへの探求の、必然的なスタイルということなのではないだろうか。(藤田のぼる)
児童文学の魅力 日本編(ぶんけい 1998)
テキストファイル化山地寿恵