やかまし村の子どもたち

リンドグレーン:作
大塚勇三:訳 岩波書店 1947/1965

           
         
         
         
         
         
         
    
    
 「やかまし村の子どもたち」(三部作)を読んでいて心に残ることは、“公正さ”というかフェアであることへの希求といった思いである。
 “やかまし村”を構成する三軒の家にはそれぞれ子どもがいるのだが、北屋敷には女の子が二人(ブリッタとアンナ)、中屋敷には男の子二人(ラッセとポッセ)と女の子一人(主人公のリーサ)、そして南屋敷には男の子が一人(オッレ。但し、第二作の『やかまし村の春・夏・秋・冬』で妹のケルスティンが生まれる)という設定を不公平というには語弊があるだろうが、全体としては男の子三人対女の子三人という“公平”なは位置になるというあたりは、この作品世界のキーとなる点であるように思われる。これは作者が意識していたとしても、「作法」といったレベルでの工夫だったかもしれないが、あえて理屈づけるならば、もってうまれた境遇の違いを、「子どもたち」という枠組み自体が乗り越えるというメッセージがここには隠されているように思える。
 さて、そうした理屈はともかく、この『やかまし村の子どもたち』という物語のかなりの部分が、「やかまし村の男の子たちと(対)女の子たち」の物語であることは誰も否定しないだろう。第一作『やかまし村の子どもたち』の、リーサによる自分たちの自己紹介といった第一話に続く第二話が、いきなり「男のきょうだいは、やっかいなものです」であり、それに続く三、四話がリーサの八歳の誕生日のエピソードで、ここでリーサがそれまで部屋を共有していた兄たちと別れて自分だけの部屋をプレゼントしてもらうという話であることが、そうした印象をさらに強めている。
 例えば、第九話の「男の子には、秘密がまもれません」では、女の子たちが見つけた野イチゴのある場所と、男の子たちが納屋の干し草の中に作った迷路の場所とを互いに探り出そうとする話であり、十三話の「まえにもいったとおり、…男の子には秘密がまもれません」は、男の子たちが林の中に作った隠れ家を女の子たちが見つける話なのだが、そのあたりの駆け引きや工夫はなかなかのものである。そして、物語がリーサによって語られていることもあり、基本的にはラッセをリーダーとする男の子の側からの挑発を、ブリッタをリーダーとする女の子たちがいかに見事に切り返すか、といったプロットになっていある。そして、どちらの側もそうしたプロセス全体を楽しんでおり、少なくともこの物語の年齢の時点では、彼らは互いを格好のライバルとして認め合っているのである。
 そのあたりと関連して、『やかまし村はいつもにぎやか』の中の、リーサの子ヒツジをめぐるエピソードも印象深い。この子ヒツジは、母ヒツジの乳が出ないためリーサの父が処置しようとしたのを、リーサがめんどうをみる約束でもらったものである。この子ヒツジ−−ポントゥスは無事育って、リーサに大変なついている。男の子たちは内心そのことがうらやましいのだが、ある日ラッセはこんな風に切り出す。
 「なんていったって、子ヒツジより、犬をもっているほうがいいぜ。」
  オッレは、スヴィップという犬をもっているので、もちろん、ラッセに賛成しました。
 「それは犬のほうがいいにきまってるさ。」
 「なぜなの? きかしてほしいわね。」と、わたしはききました。
 これに対して、ラッセやオッレは犬はどこにでも連れて行けるが、ヒツジは柵の中にいるだけと言う。実際、オッレは自分の犬を学校に連れていったことがあるのだ。これを聞いて、リーサは「犬がどこにでもいけるのに、子ヒツジがいけないなんて、とても不公平だわ」と考える。そして、次の朝、本当にポントゥスを学校に連れて行くのである。先生に問われて、リーサは苦し紛れに動物の勉強のために実物を連れてきたと答える。
  先生は、めちゃくちゃにわらいだし、子どもたちもわらいだしました。なかでも、オッレは、ひどいものでした。あんまりわらいすぎて、ふるえがとまらないくらいでした。
 このオッレの反応は「見事一本とられた」というところだろうが、ラッセ、ポッセ兄弟に比べてややリベラル(?)なところのあるオッレは、自分の負けにもかかわらずリーサの“勝利”に痛快さをも感じたに違いない。こうしたところに、僕は作者リンドグレーンのひそかな主張を読む。

 ここまで男の子対女の子という文脈で、冒頭に述べた「公平さへの希求」ということについて述べてきたが、決してこの物語はそうした文脈だけに終始するものではない。例えば、大人たち(主には三家族の両親たち)と子どもたちとの関係の中に、また大人たち同士の関係の中に、あるいは男の子三人それぞれの描き方の中にも、僕は作者の「公平さ」への意志を感じる。そして、それを支えるものは言葉にしてしまえば月並みになるが、やはり“モラル”ということになるだろうか。モラルと文学との希有な、そして見事な結合の例が、ここにあることに僕らは元気づけられたいと思う。(藤田のぼる
世界児童文学100選(偕成社)
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