贈り物としての「やまなし」

皿海達哉
日本児童文学

           
         
         
         
         
         
         
     
 混沌と明晰という相反する要素を平気で併せ持っているからだろう、宮沢賢治の作品を読むと、いろいろ断言したい欲求にかられる。自分はこう読むということを誰よりも早く示しておきたくなる。しかし、同時に、何だお前はそれだけしか読み取れていないのかと、作者以外の誰かに嗤われそうな惧れも感ずる。
 仕方がない。好きな作品の一つ『やまなし』でも採り上げて、単純に文脈をたどりながら思うところを記してゆくことにしよう。
 さて、「幻灯」とは今となっては何とも懐かしい装置であるが、監督小津安二郎のように、カメラを低く固定して「小さな谷川の底を写した」この作品は、まず五月、「二疋の蟹の子供ら」の会話から始まる。

「クランボンはわらったよ。」
「クランボンはかぷかぷわらったよ。」
「クランボンは跳ねてわらったよ。」
「クランボンはかぷかぷわらったよ。」
「クランボンはわらっていたよ。」
「クランボンはかぷかぷわらったよ。」
「それならなぜクランボンはわらったの。」
「知らない。」
「クランボンは死んだよ。」
「クランボンは殺されたよ。」
「クランボンは死んでしまったよ……。」
「殺されたよ。」
「それならなぜ殺された。」
「わからない。」

 実際に二匹の小蟹がぷくぷく泡を吹きながら口元を動かしているところを目撃したことのある人は、彼らがまさにこういう会話をしているにちがいないと納得するだろう。それは、作者自身が『注文の多い料理店』の序で「ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです」と述べている通りである。ここには、何の技巧もない。
 ぜんたい、ことばを覚えたばかりの幼い子供は、歌うがごとく発音それ自体をも楽しむ。一人の場合もしばしばそうだが、二人で掛け合いを繰り返す場合はなお、微妙に重ね合うことばの中に、それを体験してもいないくせにまるで体験しているかのような、人生の本質に関わる事柄が入り込んでくる。互いが互いの顔を見合うのでなく、開かれた風景を前にして同じ方向を向いてことばを連ねてゆくとき、特にそうだ。
 「わらう」「死ぬ」「殺す」―そうした根源的な動詞が無邪気に吐かれ、突然「なぜ」というこれまた根源的な問いが発せられると、「知らない」「わからない」という否定が、自明のことであるにもかかわらず、新鮮な障壁となって、読者を妙な謎の予感に導く。
 これは、オペラで言えば序曲である。

 では、幕があがって現れた背景はどうだったろう。

 上の方や横の方は、青くくらく鋼のように見えます。そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗い泡が流れて行きます。/ 蟹の子供らもぽつぽつぽつとつづけて五六粒泡を吐きました。それはゆれながら水銀のように光って斜めに上の方へのぼって行きました。/ にわかにパッと明るくなり、日光の黄金は夢のように水の中に降って来ました。/ 波から来る光の網が、底の白い磐の上で美しくゆらゆらのびたりちぢんだりしました。(/は行かえに非ず)

 ここに存在するのは、突き抜けてせいせいする無限の上空ではなく、なめらかであっても厳然として閉塞を迫ってくる息苦しい有限の天井であり、美しいけれど全く生命の感じられない明るさである。
 作者が修辞の中に鉱物を用いて獲得する純粋な透明感は、例えば「性」がもつ猥雑さや官能的要素などは完全に排除する。
 その風景の中に魚が現れる。

 つうと銀色の腹をひるがえして、一疋の魚が頭の上を過ぎて行きました。/ 魚がまたツウと戻って下流の方へ行きました。/ 魚がこんどはそこら中の黄金の光をまるっきりくちゃくちゃにしておまけに自分は鉄いろに変に底びかりして、又上流の方へのぼりました。/ そのお魚がまた上流から戻ってきました。今度はゆっくり落ちついて、ひれも動かさずただ水にだけながされながらお口を環のように円くしてやってきました。その影は黒くしずかに底の光の網の上をすべりました。

 実際、魚はそういうふうに流れを溯ったり下って来たりする。冒頭の蟹の会話と同様、誰もがそのようすを目撃しているが、描かれて初めてそうだと気づく。
 しかし、その魚を小蟹はどう見ているか。

 「お魚はなぜああ行ったり来たりするの。」
 「何か悪いことをしてるんだよとってるんだよ。」
 「とってるの。」
 「うん。」

 弟の質問は素朴である。兄の回答は悪意が先行し、言い方まで屈折している。
 横歩きしかできない平べったい蟹が、自由に行ったり来たりしている紡錘形の魚に嫉妬しているのか。おそらく、垂直方向への閉塞感、生きてあることへの漠然とした不安、性不在の孤独、そうしたものが水の明るさの中に潜んでいた空虚に触れて、いらだたしい物言いをさせたのだろう。
 そう言えば、冒頭「それならなぜ殺された。」と訊くとき、兄は「その右側の四本の脚の中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら云」ったのだった。このしぐさなど、最初は愛らしく感じたのに、改めて読むと息苦しく切ないものにも感じられてくる。

 転調。不吉な予感は、突如現実のものとなる。
 そのとき、「俄かに天井に白い泡がたって、青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾のようなものが、いきなり飛込んで来」、自由に行ったり来たりしていた魚を天井の上へとさらって行く。兄は「その青いもののさきがコンパスのように黒く尖っている」のをはっきり見、兄弟は「まるで声も出ず居すくまって」「ぶるぶるふるえる」ことになる。
 小蟹たちは突然天井に穿たれたブラックホールに、死神の鋭い鎌の影を垣間見たのである。
 夢のようにきれいな「樺の花」が流れていっても、小蟹たちには何の慰めにもならない。
 因みに、『蜘蛛となめくじと狸』の蜘蛛は、網にたまった食物が腐敗したのがうつって、「足のさきからだんだん腐れてべとべとになり、ある日とうとう雨に流れて」死んだのだった。とかげは、蛇に噛まれた足を嘗めてなおしてやろうと言うなめくじに徐々に嘗め尽くされて死に、そのなめくじも、蛙に塩をまかれ溶かされて死んだのだった。

「なめくじさん。何だか足が溶けたようですよ。」
「ハッハッハ。なあに。それほどじゃありません。ハッハッハ。」
「なめくじさん。からだが半分とけたようですよ。もうよしてください。」
「ハッハッハ。なあにそれほどじゃありません。ほんのも少しです。も一分五厘ですよ。ハッハッハ。」
 それを聞いたとき、とかげはやっと安心しました。丁度心臓がとけたのです。

 ここに示された陰湿、貧婪かつ滑稽な死と、かわせみが示した死とはまるきり違う。
 鋭角的、美的、非連環的、静寂、荘厳といった要素が、結晶のように決定的な無常感を印象づける。
 金属光沢を持つ鳥かわせみの姿は、一瞬、一部しか見えなかった。つれ去られた魚も「こわい所へ行った」とだけで、それ以上追及されることはない。

 やがて、季節はめぐって十二月となる。凍らない谷川の底も一層冷たい。
 成長したといっても、小蟹たちはまだあどけない。「あんまり月が明るく水がきれいなので睡らないで外に出」た二人は、自分たちの吐く泡の大きさをめぐって言い合う。

「やっぱり僕の泡は大きいね。」
「兄さん、わざと大きく吐いてるんだい。僕だってわざとならもっと大きく吐けるよ。」
「吐いてごらん。おや、たったそれきりだろう。いいかい、兄さんが吐くから見ておおいで。そら、ね、大きいだろう。」
「大きかないや、おんなじだい。」
「近くだから自分のが大きく見えるんだよ。そんなら一緒に吐いてみよう。いいかい、そら。」
「やっぱり僕の方大きいよ。」
「本統かい。じゃ、も一つはくよ。」
「だめだい、そんなにのびあがっては。」

 これは、谷むこうに降った雪を見ながら、いやキササゲの花だ、いやヒキザクラの花だと諍う『なめとこやまの熊』の母子の会話に匹敵しよう。こうした子熊や小蟹を見守る作者のまなざしは、ほとんど造物主のそれに近い。

 そして、いよいよ大団円である。
 『祭の晩』『山男の四月』『鹿踊りのはじまり』『狼森と笊森、盗森』『どんぐりと山猫』と、贈り物の大好きな作者は、この愛らしい二疋の蟹の子供にも、すてきな贈り物をするにちがいない。

「もうねろねろ。遅いぞ、あしたイサドへ連れて行かんぞ。」

 贈り物は、「イサド」だった。「イサド」には何があるのだろう。もしかして「イサド」とは祭りのようなものなのかもしれない。いや、「イサド」にはきっと母親がいるのだ。いや、「イサド」はもっとはるかな何かなのだ―などと考えていると、トブンと音がして、

 黒い円い大きなものが、天井から落ちてずぅっとしずんで又上へのぼって行きました。

 それは、いい匂いのする『やまなし』なのだった。
 作者は、けなげな小蟹の兄弟に、また読者に、「カワセミ」ではもちろんなく、「母」や「姉妹」でもなく、一連の「花」と一顆の「果実」を贈った。日常生活の葛藤ないしその延長は、最後まで避けた。『よだかの星』の献身も悲惨も、ここにはない。
 これは、一見情的判断のように見えるが、むしろ知的選択であろう。この選択には、与えられた生を自足して生きるよりほかない小さな無辜の存在に対する祈るようないとおしみと、美による韜晦とがある。
 作者は、自らを修羅と呼んでいる。理想と現実のはざまにあって悪戦苦闘し続けた作者のこうした美意識を責める権利は、誰にもない。
テキストファイル化 中川里美