山のトムさん

石井桃子 深沢紅子 画 福音館書店 1968

           
         
         
         
         
         
         
         
     
 くだらない習慣だとは思うが、わたしは気にいった本を読み終ると本の見かえしに読了年月日を書きこんでしまう。おもしろかったなと呟くようなものである。時にはひどく苦心して読み切った本に、ざまあみろ、おれはとにかくおまえを読んだからなと、わが苦役のほどをしのぶ意味で記すこともある。時たましか本を読まないくせに何と仰々しいと思わないでもないが、別に他人に迷惑をかけることでもないので断続的に続けている。そのおかげで、今度『山のトムさん』を取りだしてみて、ああ、これは福音館書店からでてすぐに読んだのだな、ということがわかった。一九六八年十月二九日読了となっている。もちろん、この物語が最初に光文社からでたのは、それにさかのぼることほぼ十年前の話らしいが(「あとがき」にそう記されている)、わたしはその本を知らない。すこしばかり遅い出会い方だったが、こいつに出会えてよかったなという記憶がある。わたしはその頃も猫と同居していたのだが、現在の猫との同居ほども、「同居」の意義を感じていなかったように思う。そのせいだろう、ついに今日まで『山のトムさん』には触れずにきてしまった。
この物語は、敗戦直後、東北の山間部に開墜者として住みついた「トシちゃんと、トシちゃんのおかあさんと、おかあさんの友だちのハナおばさんと、おばさんの甥のアキラさん」の四人が、猫とともに暮す日々を描いたものである。その猫の名前がトム。物語は、トムがなぜこの四人の中に迎え入れられたか、その登場理由から語りかけていく。開墾地のネズミたちが傍若無人にこの一家の中を駆けまわる。人間側は、あの手この手と防戦につとめるが、ネズミ捕りのたぐいでは引きさがる連中ではない。そこで、取り立てて猫好きでもない人間側が、猫を飼ってみようと決心する。
 もちろん、猫はネズミをとるための道具ではない。それが、人間側の予測をこえた生命体であることはすぐにわかる。ハナおばさんが、まずトムのしつけのためにと始めたカエル捕りは、目的を逸脱してトムを喜ばせるための行為になったりする。おばさんは、トムのかわりにカエル捕りの名人になる。そうかと思うと、人間側がトムの病気のため一喜一憂させられる。戸袋の中でうんちだらけになったトムを、みんなで寄ってたかって洗濯し、「しぼったり、裏がえしたりして」かわかすこともしなければならない。この物語は、そうした溜息のでそうな心やさしいエピソードを積み重ねていく。そして猫と人間の二年にわたる生活を描きあげ、トムの実に愉快なクリスマス・プレゼント捕獲のさまで終るのだが、こうした大雑把な「あらすじ」紹介ではこの物語の魅力は伝わらないだろう。
 ここに描かれているのは、いわゆる「愛猫記」ではなく「猫と人間の同居」物語だからである。飼育しネズミ捕りの手段化するはずの猫が、人間の在りようを変えていくのである。人間が猫を「愛玩」の対象としている限り、人間は自己を見直することはないだろう。「同居」の発想に立って、はじめて人間は自己を見直すようになる。たとえばこういう個所がある。

「こんなトムが、家にいっしょにすんでいるということは、おかあさんたちには、ありがたいことでした。春から、夏のはじめまで、ジャガイモまき、田植と、気ちがいみたいにかけ歩かなくてはなりません。人間は、あれまりいぞがしいと、おこりっぽくなります。アキラさんやトシちゃんの帰りがおそいと、おとなの人たちは、いったい、何をしてあそんでるんだとイライラしてきて、帰ってきた顔を見るなり、『早くおふろ、たきつけるんだよ!』などと、どなりたくなります。
 けれども、トムにたいしては、だれもそんなことを考えません。トムは、いつ出かけ、いつ帰ってきてもいいのです。
『あれ、トムさんお出かけだ。』
『あれ、トムさんおかえりだ。』
 みんなは、笑って、それを見送り、むかえました。」

 これは猫を「猫かわいがり」しているのではない。多少とも猫との同居体験のあるものなら説明なしでわかると思うのだが、猫を生命体そのもの、生命体に本来内在する自由の具現として見つめる発想である。人間は年齢性別を問わずさまざまな人為的規制の中で生きなければならぬ。極端にいえば、利害得失と結びついた行動をとることがその日常といえる。そうした有形無形の拘束性の中で、人は常に自由であることを願い、生命そのものとして畏敬されることを考える。猫はそうした人間の願望を具現している。人為的価値、社会的諸規制にとらわれることなく、自己主張し、自由に行動することによって、人間のともすれば見失いがちな生命体の在りようを教示する。トムに対する右の引用個所の手放しの肯定ぶりは、人間の自己確認なのである。おまえは好きにしていいよと猫の行為を是認することによって、人間は、本来そうしたものとしてあるべき自己存在を眺めているのである。これは、人間の自由や生命の重さを、猫に「肩がわり」させることではない。一見そう見えても微妙な違いがある。生態的な異質性を知りながらも、その底にある生命の一回性によって同生命体という共感を持つこ とである。猫はこの場合、生命体の解放された在りようを具現し、人間はそれの歴史的社会的在りようを具現していることになる。
 この物語のすぐれている点は、そうした生命の手ごたえを、猫と人間の関わり方を通してみごとに描きだしているところにある。それもきわめて明るいタッチでユーモラスに表現しているのである。変に肩ひじ張った言い方をしたが、わたしはひどくおもしろがってこれを読んだのだ。
 物語の冒頭、これは戦争直後の山間部の開墾地での話であると、さりげなく「時代背景」が記されている。この言葉の中に、わたしはあの敗戦直後の説明しがたいような飢えの日々を思いだした。ほんとうはその時代を語るだけでも一冊や二冊の本になるくらいのできごとがあったに違いない。作者はそれをわずかの言葉に置きかえるだけで、「時代」の流れに風化しない作品を生みだした。それが結果として、「戦争」体験のない世代にも、今なおこの物語を手に取らせているのだろう。(上野瞭
日本児童文学100選(偕成社)
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