妖怪バンシーの本

アン・ファイン

岡本浜江訳 講談社 1991/1993


           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
    
「ぎょろ目のジェラルド」とこの物語は少し似ている。学校と家の中という、読み手の子どもと同じ生活圏が主な舞台となっていることがひとつ。もう一つは、少年と少女の違いはあるが、やはり主人公によって雄弁に語られる、バイタリティあふれるお話であることだ。ここでも表現する少年、大いに語る少年という、印象が強い。語られることは「ジェラルド」よりもいっそうありふれたことであり、語られねばならぬこともキティの場合よりもっとないにもかかわらず。
 どちらも家族に起こった出来事に対して、それを乗り越えていく子どもを描いている。とはいえ、この話の出来事はいつの時代、思春期のどの子にも起こってくるようなことで、そのこと自体が大きい問題でもない。つまり、主人公ウィルもまた大いに語るが、語る目的がこちらは語ることそのである。妹エステルの起こした騒動は勿論動機ではあるが、それ以上に、学校にやってきて「書くこと」の授業をした女性作家に触発されて、とにもかくにも書きたかったのだ、ということ。そして、書くことの中で、ウィルは自分探しをしていくのである。キティもそうなのだが、自分へのこだわりは、こちらのほうがいっそうはっきりしている。エステルと親たちが主たる当事者、自分は当事者でもあり傍観者でもあるという距離のとりかたもあるのか、少女ではなく少年だからか、考える自分を、より強く表現している。
 第一章に出てくる、アン・ファインを思わせる女性作家と、教師たち、少年たちとのやりとり風景がまず面白い。そこでウィルは書くことを決意するのだが、彼の前にある素材はエステルの変身である。彼はそれを戦争に見立てて書こうというのである。それは、彼が片時も離さず愛読している「最高に長い夏」という本に書かれている、一八才のウイリアムが第二次世界大戦で体験したことを、彼自身も体験するためでもあった。第二次世界大戦とエステル戦争とは比較にならないが、とにかく彼は実戦に参加したということになる。そうすることで、ウイリアムが戦争の中で考え感じたことを、ウィルもそれをなぞる形で、体験していくのである。
 やさしくて良い子ちゃんであったという、子ども時代の神話が終わり、エステルは大人への入り口でとまどっているだけなのだが、親たちにはその現象が冷静に把握できない。反抗し非常識な行動をとる娘との対応に疲れ果てるばかりだ。被害はウィルにも幼いマフィにも及ぶ。教師たちの入れ知恵で俄然反撃にでる母親。そして気がついてみれば、戦争はエステル対家族であったのが、大人対子どもに広がっている。ウィルやチョッパーも又、エステルと同じく妖怪バンシーのように変身して、大人たちから気味悪がられる存在になっている。 状況はどんどん変わっていくのである。その変化の中でウィルはどう対応していくのか。ある時までは「最高に長い夏」が教科書であった。しかし、考えることから一歩でて行動しなければならない時にそうしないウイリアムに疑問を感じた時から、ウィルは自分自身で考え行動し始める。
 その間に、家庭の中にも変化が起こっていて、それは自然の成り行きであると共に一人一人の意志の変化が微妙に全体を変えていくのでもあった。そこには以前の平和とはちがう、別の均衡が生まれている。ちょっとやそっとでは崩れない家族の力、健康な力が働いているのを見ることができる。
 キティよりいっそうオーバートーンで語られるこのお話、家庭内騒動を楽しんじゃおうとばかりの、元気の良さである。出だしと呼応して終わりもユーモラスなくくりかたで閉じられているが、その遊び心、サービス精神は他の作品同様、ここでも大いに発揮される。
 どこの家でも見られる、朝のあわただしい日常の情景が、一幕一場のコメディのような仕立てられ方で描かれる。日常をあるがままに愛する作者の目がそこにはある。日常を非日常に格上げし、凝縮するのではなく、日常は日常のままである。つまらない日常が面白い日常に仕立てられるのである。
 読み終わってみれば肩すかしをくったような、大して中身のないお話といえるが、イキの良さで読まされてしまう作品だ。
 以前私はいわゆる問題児といわれる子どもと関わることがあり、そこで思ったことが表現の問題であった。表現できる子は表現することの中で自分を解き放ち、何らかの方向を見いだしていく。それができない子は、手を貸してやろうとする大人にとっても、なんとも難儀な子であった。
 その時から表現できる子というのが、私の関心の中にずっとあり、キティやウィルと出合った時、こんな子だ、と思ってしまったのであった。(松村弘子)
児童文学評論 1995/04/01
           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
    

テキストファイル化(妹尾良子