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妖精の本場アイルランドからのファンタジー。 アイルランドのフィンダファーとカナダに住むグウェンはいとこどうしで十六歳。ファンタジーを心から愛する二人は、夏休み、別世界を求めアイルランド探索の旅に出る。しかしタラの妖精塚でキャンプした夜、フィンダファーが妖精王に連れ去られる。グウェンはいとこを連れ戻そうと後を追う。そのグウェンも妖精塚で眠ったことと妖精の宴会で警告を聞かず妖精の食べ物を食べたことで、妖精の仲間になるか、人間界を影となってさまようかの選択をせまられる。妖精の仲間になるつもりのないグウェンは、無理やり妖精界に引き寄せられていく。 メリングの作りだす妖精の世界は正統派である。アイルランドでは、人々が「土地の霊」と「祖霊」と「超自然の生きものたち」と共に身近に暮らしているという考えをもち、フェアリーランドは現実と背中合わせか、または同時に存在していると考えられているというが、メリングの世界もこの考えを基にしている。妖精界は人間界と同時に存在し、妖精が姿を現すのは墳墓や妖精の丘などで知られる、タラやスライゴーなど実在の場所である。またでてくる妖精も、レプラコーンや「妖精の医者」や「角の生えた魔女」など、本物のケルトの妖精たちである。 妖精の後を追ってグウェンは、妖精になじみの深いアイルランド東部のタラから西部のゴールウェイへ、さらにスライゴー街道を通って北端のインチ島まで旅する(道筋は付録の地図でたどれる)。グウェンを助けてくれるのは、靴屋のレプラコーンじいさんや、インチ島の王と名乗るダーラや、妖精界に七年いたという妖精の医者のおばばである。インチ島でグウェンは角のある魔女に襲われ妖精の手に落ちそうになるが、ダーラとおばばに救われる。 さて、ここまでは妖精王との戦いに思われていた物語がフィンダファーの救出を軸に急転回する。もうすぐ「狩人月」で、妖精族の存続のためには「狩人」とよばれる大蛇に生け贄が必要なことが明かされる。妖精王がグウェンを手にいれたかったのは、この生け贄のためで、グウェンがだめだと分かった今、生け贄はフィンダファーとなる。自ら望んで妖精王の花嫁となったフィダファーは愛する妖精王と妖精族のため喜んで生け贄になる決心である。妖精王もフィンダファーについていく覚悟だという。フィンダファーと妖精族を救うため、グウェンたちは大蛇と戦う決断をする。 ここで妖精と人間の愛というテーマが大きく浮上する。妖精と人間の愛というとトールキンの『指輪物語』で、愛のために妖精界を捨ててアラゴルンと一緒になったアルウェンなどが頭に浮かぶが、本書ではもっと愛は深く、フィンダファーは人間界を捨てたばかりでなく生け贄として命も捨てる決意だし、そのうえ相手の妖精王までが愛に命を捨てる覚悟である。ただ、このテーマには甘い点がある。大蛇退治は失敗に終わり、戦いの代償として大蛇は妖精王を要求する。大蛇にのまれた妖精王が、不死性だけを奪われ人間として蘇るのは、無理があるし甘すぎるのではないか。 無理といえば、せっかく大蛇退治に必要な「楽園の七天使の勇ましき力」がそろったのに、大蛇退治が成就しないのはなぜだろうか。簡単に大蛇が殺されるとは思えないが、疑問が残る。ただこれは愛のテーマのもうひとつの側面につながるが、命を捨ててもいいほど妖精界を愛している七人の存在こそが大切なのではないか。特に、妖精王、フィンダファー、グレイニアをぬかした、グウェン、ダーラ、マティー、ケイティーという普通の人間の存在が。アイルランドでも妖精に対する無理解が広がっているなかで、メリングが強調したかったのは、こちらの愛だったのではないだろうか。 今日、ファンタジーといっても、問題をかかえた主人公がファンタジーの世界を体験することで問題を解決するという、ファンタジーの世界を手段として使う作品が多いのだが、『妖精王の月』では妖精の世界を満喫することができた。久々の本格的ファンタジーである。(森恵子)
図書新聞1995年4月29日
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