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人間の家の床下で暮らしをしておられる小人家族の物語。私、よく物をなくします。最近も気に入っていたミサンガを紛失し、探しても探しても見つからない。けど、床下に暮らしている小人がマフラーにするために持って行ったと考えれば、あきらめもつくし、楽しい。この物語の小人に言わせるとそれは盗んだのではなくて借りているとのこと。人間は彼らが借り暮らしをするために存在しているらしい。そうか。 もう、この設定だけで、物語は私たちを魅了してしまいます。だって、物をなくしたイライラを解消してくれる、つまり、人生の正しいやり過ごし方を教えてくれているのですから。 けれど、この物語のすごさは、それだけではありません。 ちょっとややこしいですが、この物語は誰によって、誰に向けて語られているかを考えてみます。まず、ケイトって女の子にメイおばさんが語っています。けれど、その内容は、メイおばさんの弟が彼女に語ったもの。で、なおかつ、私たちがいま目にする書物の語り手は、自分自身はケイトではないと最初に宣言しています。弟からメイおばさん、ケイト、書き手と経て、ようやく読者である私たちに届いているというわけです。殆ど伝言ゲームですよね。 このややこしい仕掛けの意味を平たく述べれば、物語はここに描かれている出来事、借り暮らし屋の小人たちの存在の信憑性を検証する権利を、あらかじめ私たち読者から奪っているということです。「現実的に考えたら、小人なんかいるわけないだろ」から「豊かな想像力を持っている人間にとって確かに小人は存在する」までの全てをね。これは読み手に対する厳しくそして真摯な信頼の証しです。何故なら、信憑性を検証する権利を奪うことで逆に、物語は私たち読み手に、その物語を受け入れるか受け入れないかの自由を与えているのですから。 受け入れた読み手に、物語は詳しく伝えます。魔法なぞ使えなくても、私たち人間と同じように欲望や喜びや恐れや悲しみやためらいやひたむきさを持っている小人の家族の日常生活を。 この家族、床下に暮らしている以外は床上の家族とそっくり。父親は床上へ仕事(物を借りる)に出掛け、母親は家事で、娘のアリエッティは母親の手伝い。 アリエッティは、格子窓と名付けた通風口から外を眺めるだけで、床上に行くことが禁じられています。小人の家に幽閉された白雪姫状態ですね(実際彼女を幽閉しているのは両親なる小人でもあります)。白雪姫がそれでも行商人に化けた義母(生母)と接触してしまうように、アリエッティもまた、外に出たくてしかたない。ある事件をきっかけとして、父親の助手として床上へ出掛ける機会が訪れます。そこで彼女は人間の男の子と出会う。 この男の子、病気療養のため両親の元から離れて大伯母の家に来ている。だからさみしくて孤独。アリエッティと知り合えて嬉しくて、プレゼントを思いつきます。 一方娘が人間と接触してしまったことを知った両親は、引っ越しを考える。ところが床(小人たちには天井)を開けて男の子がプレゼントしてくれたのは、ミニチュアの家具たち。職人が作った本物中の本物です。生活が向上したので大喜びの両親。 さみしくて孤独で、家族に憧れる男の子。どこかにいましたね。「若草物語」のローリー。娘に向ける親の愛に包まれながらも、男の子と同じに元気に外へ飛び出したい女の子。どこかにいましたね。「若草物語」のジョー。つまり、この物語、床上から眺めれば、男の子の物語、床下からは女の子の物語なんです。両方の物語が、一つの書物の中で交錯する。 さて、ジョーの末裔ともいえるアリエッティは、この「女の子の物語」をどう生きるのか? 張り切りすぎた男の子が、あんまりたくさんの家具を戸棚から持ち出したため、小人たちはついに家政婦に見つかってしまい、移住をするはめになる。アリエッティは泣きます。両親も男の子も、その涙を悲しみだと思った瞬間、アリエッティは、「わたし、うれしくて‥‥うれしくて」と言うのです。彼女にとって、家族のこの危機的状況すら、自分が幽閉から自由になれる喜ばしいものであったわけ。 ジョーより新しい時代を生きる彼女は、自分の欲望に正直です。 こうしてアリエッティは、「女の子の物語」から抜け出て行きます。 一方「男の子の物語」は? 実は、ケイトが床下の小人の物語を聞く前、この書物の最初に、男の子の姉であるメイおばさんがすでに語っていました。 「大佐で、連隊長になっていて、《英雄的な戦死》をしたというわけだね‥‥」と。(ひこ・田中)
「子どもの本だより」(徳間書店)1996
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