ゆうれいがでた!

D.H.ウィルソン

掛川恭子訳 佑学社 1998


           
         
         
         
         
         
         
         
    
 二年半前に日本に紹介され、たちまち多くの日本の子供達の共感を得て、彼らの友達になってしまった、あのジェレミー・ジェームズが再び日本にやって来た。相変わらず、好奇心旺盛で、社会のしくみや大人達の不可解な行動には素朴な疑問を抱き、それを素直に大人にぶつけたり、あるいは自分なりに考えて行動する大変元気のいい少年である。作品は前作同様、彼の日常生活の中で繰り広げられる様々な愉快なエピソードを集めている。
 例えば第一話は、前作『車の上にゾウがいる!?』でゾウにつぶされたパパの古い車を売って、その代わりに購入した新しい中古車を、車が届いたその日に、彼が一人で動かし、他人の家の垣根に激突してしまう話。第二話は、お金が欲しくて、「元気のいい少年求む」という張り紙を出している八百屋に仕事をもらいに行くが、逆に、これを食べて大きくなるように袋一杯の新鮮な野菜や果物をもらってくる話。表題作の第四話は、雨や風が激しく、雷も鳴る嵐の夜、寝る前に「ゆうれい屋敷」というテレビ番組を見た彼が、床がきしみ、ドアが開き、長い服を着て表れた人影を幽霊だと思い込み、必死で怖さに耐えて頑張る話。隣の家の少年の誕生会での第五話は、どんなゲームをしても、母親の加担を得たその少年が不正に勝ち続けていた際に、ジェレミー・ジェームズの機転で、最後のゲームでやっと他の子に勝たせることができた痛快な話、第六話は、賃上げを要求して公園でストライキ集会をしている労働者を見た主人公が、自分のこづかいを上げてもらおうと両親に対してストライキをする話。また第八話は、デパートで会った商魂たくましいサンタクロースを本当のサクタだと思った彼 が一週間後に教会で会った無欲なサンタをにせものだと告発する話。作品にはこの他に、前作の終章で生まれた双子の弟妹の洗礼式で、牧師が誤って弟を洗礼盤の中に落とす話や、泣かずに済んだらチョコバーを買ってもらえるという約束で、いやいや虫歯治療に行く話など、全部で九篇のエピソードが語られている。
 どの一篇をとってみても愉快で楽しい。しかしこの愉快さや楽しさは、ドタバタ喜劇を見る時のそれではない。ではこの作品の楽しさ、おもしろさはどこから来ているのか。それは作者が徹底して子供の視点で、子供の目の高さで物を見ているということからであろう。大人の目から見れば当然のことが、子供には当然でなかったり、大人にはくだらないこと、たわいもないことが、子供には大まじめで取り組む対象であったりする。例えばアルバイトやストライキの話も、大人達には一笑に付すかもしれない。しかしジェレミー・ジェームズは大まじめなのだ。また新しい車を動かしてしまったことだって、大人達は悪戯としか受け取らないだろうが、彼にしてみれば、車が動けばパパが喜ぶだろうと、善意でやったことなのだ。また彼にはサンタクロースが二人いるなんてとても信じられないし、まただまされてあげなくてはいけないなどとは勿論考えない。この大人の論理と子供の論理のずれが、子供には力強い味方を得た心強さを与え、大人には新鮮な死やを回復させる。
 しかし子供の視点で物を見るということは、子供の論理で物を考えるということだけではない。子供の感じ方をも共感しなければならないのだ。ここに作品の魅力を支えるもう一つの大きな支柱がある。つまり子供の心理が、読者に共感できるような形で実に巧みに描かれているのだ。特に表題作の、暗闇や幽霊を怖がる子供の心理。チョコバーに釣られて嫌いな歯医者に行く子供の心の動き。そして子供が真剣に取り組んでいることを大人はまともに相手にしてくれない悔しさ。これらの感情は、ジェレミー・ジェームズと同年齢以上の人なら誰でも一度や二度は経験済みだろう。そしてこれらの感情に共感できる読者は、主人公の中に、現在の、あるいはかつての自分の分身を見出し、本当に子供の視点から物を見ることができるのだ。
 読者対象は、作品には小学校中学年からとされているが、主人公が来年小学校に入る年であることを考えると、読んで上げるなら、もう少し低い年齢の子供でも理解できるのではないかと思われる。
 唯一気になるのは、主人公は良いことをするほうびにお金やお菓子をもらうことを期待し、実際に与えられる点である。これは作品の文学性に関わる問題ではないが、どうもお金万能主義の社会風潮の落とし子のような気がしてならい。第二話で、八百屋からただでもらった野菜や果物を母親に売って、そのお金で好きなお菓子を手に入れる。しかしそんなプラティカルな彼が、クリスマスの後、町で会った哀れな老人に、自分のこづかいでクリスマスプレゼントを送る終章には、ほのぼのとした救いのようなものを感じる。(南部英子
図書新聞1988/09/03

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