幽霊の友だちをすくえ

ヘレン・クレスエェル

岡本浜江訳 大日本図書 1991


           
         
         
         
         
         
         
         
     
何らかの理由で親元から離れ親戚の家などで休暇を過ごすことになった子供が、身も心も日常生活の束縛から解放され、驚くべき非日常的な体験をするというのは、現実世界の子供が非現実世界へ入り込むタイプのファンタジーの定石だが、特にそれが庭園で別の時代の子どもに出会うとなると、否が応でもフイリッパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』が思い起こされる。本書は、庭園で起きた事件こそ違うが、その設定、手法、そして「時間」という哲学的概念への関心などの点で、ピアスの秀作に非常によく似ている。
父は死亡し母はフルタイムで病院勤めをしている少女ミンティは、夏休みを過ごすために母とべルトン・ハウスのすぐ近くにあるおばの家にやってきた。べルトン・ハウスというのは、昔はある貴族の屋敷であったが、今はナショナル・トラストが管理し、四月から十月まで一般公開されている金色の美しい館である。
ミンティを送ってきた母は、帰り道交通事故に遇い集中治療室へ運ばれる。一方ミンテイは、べルトンへ着いたその日にハウスの入り□で会った老人から「おまえさんを見たとたん、わかっただ。この子だ、と思った! 鍵をあけるのはこの子だとな」と告げられ、ハウスの中に六十年以上も閉じ込められ、自由にしてくれと泣く子どもたちがいることを知らされる。
この老人の言葉が気になり、その後何回かハウスを探険に行ったミンティは、ハウスの庭園で百年前の少年トムと二百年前の少女セアラに出会う。トムは貴族屋敷の雑用係としてこき使われているみなし子で、セアラは悪魔の子として子供たちからいじめられ、魔女のような無気味な女に捕らえられ苦しめられている。
物語はミンティがいかにしてトムとセアラを救出するかを中心に語られるが、形式としては庭園での出来事とおばの家での現実生活の記述が交互に繰り返されている。
現実生活では、母の容態を気づかうミンティが庭園での不思議な体験をカセット・テープに吹き込んで意識不明の母に聞かせる。それが功を奏してか、やがて母の意識は戻る。そしてそれと時期をほぼ同じくして庭園での事件も解決に向かう。
そもそも母が事故で意識不明となったその日に、ミンティは老人から重大なことを聞かされ一連の不思議な事件が始まったのだ。それを思うとミンティは両者に何らかの関係を感じずにはいられない。しかし読者にも両者の関連を必然的なものだと感じさせるにはもう一工夫必要だったのではないかと思う。
この作品の原題は「日時計」ならぬ「月時計」。そのタイトルを象徴するかのように、庭園に入るとすぐに翼のある男性と少年が組み合っている彫像がある。それを見たミンティは直感的にそれが月時計であると思い、以後月時計や月時間にこだわり続ける。月時計とは、いつかは死をもたらす普通の時間とは異なる時を計るもの、太陽や砂時計の砂や時計の針とは関係のない時を刻むもの、自由自在に人の心と生命の時を計り、世紀と世紀をつなぐものである。
クロノス(ギリシャ語で時間の意)という名の男性とエロス(愛)とい名の少年がとっくみ合っているこの彫像は、作品のテーマを暗示する。即ちクロノスの前でいたずらに頑張っているだけのように見えるエロスには、実は人を別の時間や空間に送り込む魔力があるように、いずれはすべてを滅ぼす時間の前には万物は無力であるように見えるのだが、愛は時空を超えて生き続け人の精神や魂を解放するのだ。
この作品は、ミンティの愛と勇気が過去という時間や呪いに捕らわれていたトムとセアラを救い出し、永遠に自由な月時間のなかに解放する話である。
作品にはこの他にも象徴的なネーミングが多くおもしろいことを付け加えておきたい。(南部英子
図書新聞 1991/04/06