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地球から特別な子どもを捕獲しようとしている魔女のドラグウェナは、「血のように赤い肌。入れ墨でふちどられた目。そして歯は四組もある。ヘビのようなゆがんだ口の中に二組。口の外側に二組。紫色の目をしたクモが数匹、口のまわりで食べかすをそうじしている」と描かれる。これをグロテスクと感じる読者はいるだろうう。が実は、そうした感性そのものを、「レイチェル」シリーズはあぶり出す。何も外見だけではない、現代をスムーズに動かしてきたシステムやヒエラルキーの転覆をも謀る。次の場面、地下室の壁から黒い腕が飛び出し、エリックを引きずり込もうとしている。姉レイチェルと、パパは引っ張るのだが子どもたちは壁の中へ。「パパは、レイチェルを放した手をのろうように見つめ、足で斧をけとばした。目から涙がこぼれた。」そこに残されたのは、我が子を助けられなかった父親の姿だけ。しかも彼、助けるために次の手を考えるのではなしに、泣いてしまう。物語の始まりですでにパパ(大人)は己の無力さに愕然とし、同時にそれをさらけ出してしまう。 ドラグウェナは、魔導師ラープスケンジャによって地球から遙か遠くのイスレイアに飛ばされてしまっている。時を経て力を蓄えた彼女は地球から次々と子どもを集め、成長させずに奴隷として扱う。そして己の部下として使えそうな魔法力を潜在的に秘めているレイチェルを見つけたのだ。スカイウォーカーがヨーダによってフォースを開花させたようにレイチェルもまたそうした厳しい修行をさせられるわけではない。こうしたい、こうなりたいといった願望をできるだけリアルに想像すれば自然と呪文が生まれてくる。また相手の持っている呪文のペーストも可能。闘いは、相手がどんな魔法をかけようとしているか、それの裏をかくにはどんな呪文がいいかといったかけひき、つまり情報戦となる。また呪文は生きていて、意志もあり、レイチルが彼らを巧く・的確に扱えるかが闘いの基本となる。弟エリックは、魔法は使えないが、相手の呪文を壊す能力がある。彼はファンタジー世界の破壊者なのだ。ドラグウェナを倒し地球に戻ったレイチェルたち。第2巻ではドラグウェナの母親ヒーブラが復讐のために、地球の子どもたちに近づき、潜在的な魔法力を目覚めさる。その力を使って子どもたちは大人社会を根底から変えてしまう。もう大人に頼る必要はない。大人はむしろ守ってやらなければならない存在なのだ。第3巻では、解き放たれた子どもたちの魔法力はもはや止めることができなくなっている。学校に行く必要はもうないし、お金の心配もいらない。大人社会は終わりを告げている。前巻で、ヒーブラが檻から解き放った、戦闘のためだけに生み出されたグリダたちが、魔女も魔導師も地球も滅ぼそうとやってくる。赤ん坊のイェミも魔法は使えないが相手の呪文をそのまま跳ね返すことができる。エリックの呪文を壊してしまう能力は相手の人格まで壊してしまう危険性がある。一方イェミのそれは、彼が赤ん坊であるがために冷静に制御できない怖さがある。 無力な大人と、危険な子ども。そしてこの巻では、悪として対峙してきたはずの魔女と魔導師が実は昔同じ種族だった事が分かる。つまり、善と悪が対峙するシンプルなファンタジーは最終巻でついにご破算となるのだ。 『レイチェル』はファンタジー作品というより「ファンタジー」なるジャンルを提示し、解体しているように見える。 読書人2003.02.14 |
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