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![]() 本書の最後は、次のような言葉で締め括られていた。マリーの耳に「あたしたち、みんな同じ人間じゃないの」というレーナの声が聞こえてくる。そしてマリーは思う。「それなのにさ、どうして、みんな同じ人間でいられないんだろうね?」。何故にマリーは(空想上の)レーナの言葉をかくも否定しなければならなかったのだろうか。この一文は様々に解釈できるが、書評子は積極的に評価したい。というのも、人間主義(ヒューマニズム)は人種差別を克服するどころか、往々にして隠微にレイシズムを温存するからである。人間主義は「人類」というメタレヴェルを設定するが、そのメタレヴェルそのものが「白人/黒人」というオブジェクトレヴェルでの差別に根拠を与えてしまう。換言するならば、レイシストは「人類」という土俵なくして差別を遂行できないのである。ヒューマニストとレイシストの差異は、「人類」の中に「白人」と「黒人」という二つの「種」を設けた上で両者の力関係を均衡にあるいは不均衡に配分するのかという量の問題に収斂される。だからこそマリーは、「それなのにさ、どうして、みんな同じ人間でいられないんだろうね?」と言うことで、「人類」という「類 」の中に「白人」と「黒人」という二つの「種」があって、二つの人種が「人類」の名のもとに理解し合う図式を否定したのである。繰り返すが、彼女が拒否したのは、二人が理解/誤解し合う可能性ではなく、自分たちを「人間」というメタレヴェルにおいて了解してしまうような姿勢ないしは認識の仕方であった。あれほ ど人種差別に直面していたレーナでさえ(だからこそ)陥りかけた人間主義のトラップは、容易に復活するのである。もちろん、人間主義を否定したからといって何かが解決された訳ではない。しかし、少なくとも、人間主義のように安易に「人種」を超えてしまうことでレイシズムを無毒化するという最悪の事態は回避されているように思う。 蛇足ながら、みすず書房から昨年(1998)、フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』(復刊)とガヤトリ・C・スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』の両著が刊行されたことを併記しておきたい。前者はレーナにおけるアイデンティティ・ポリティクスの問題、後者はレーナを語るマリー(>作者>読者)が直面していた表象の政治学を考えるのに格好のテキストであるからだ。興味のある方は、一読されたい。(書き下ろし/3.26.99/目黒強) |
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