リトル・ベア

リン・リード・バンクス

渡辺南都子訳 佑学社 1990


           
         
         
         
         
         
         
         
    
人形やぬいぐるみなどの玩具がまるで生きているかのようにしゃべったり動いたりするファン夕ジーはわりに多くあるが、人形が本物の人間に、しかも小さな人形のサイズのまま本当の人間になってしまうファンタジーはあまり多くはない。この作品はそのような珍しい、そのうえ極めて良質なフアン夕ジーである。
少年オムリは誕生日に、親友のパトリックから彼が遊びあきたプラスチックの古ぴたインディアン人形を、そして兄のジロンから約束通りのゴミ置き場から拾ってきた洗面所用の壁掛け式戸棚をもらう。それは一見何の変哲もない戸棚だが、実は不思議な魔力を持っていて、その中にプラスチック人形を入れて、ちょうどその鍵穴にぴったりだった曾祖母の宝石箱の鍵をかけると、中の人形が生命を得て、姿は小さいままだが、それぞれの人生を抱えた本物の人間として現代によみがえってくる。そしてその本物の人間を再び戸棚に入れ鍵をかけ直すと、人間はそのままの姿勢で再び人形になってしまう。そんな戸棚の秘密を露ほども知らないオムリはその晩、その戸棚にインディアン人形を入れて鍵をかけて眠る。翌朝戸棚の中から聞こえる不思議な物音で目をさましたオムリは、戸棚の戸を開けて驚く。何とそこには身長七センチぐらいの、人形ではなく本当に生きているインディアンがいたのだ。リトルべアーという名のこのインディアンは、およそ一七○○年頃のアメリカにいたインディアン、イロコイ族の首長の息子であった。小さいながらもプラ イド高く勇敢で威風堂々としているその姿にオムリは愛着だけでなく畏敬の念さえも感じ、家族には内緒でリトルべアーを自分の部屋に住まわせることとし、やがて二人の間には友情がめばえる。ところがオムリの秘密を知ったパトリックは、勝手にオムリの魔法の戸棚と鍵を使ってカウボーイのプラスチック人形を生き返らせてしまう。インディアンと力ウボーイとでは、歴史が証明しているように、当然仇同士だ。この二人も例外ではなく、些細なことですぐにいがみ合う。だがオムリは彼らにそれらのトラブルをのり越えさせ義兄弟の契りを結ばせる。また妻がほしいと望んだリトルべアーのために、インディアンの少女を戸棚でよみがえらせもする。しかし彼らをこの人間社会の中でかくまいながら生かし続けることは不可能であり、また彼らにとっても不幸であると思い至ったオムリは、魔法の戸棚に少女とともにリトルべアーを、そして彼らとは別にカウボーイを入れて鍵をかけ、それぞれの時代へ送りかえす。
物語ではこの他、オムリの兄たちに秘密がばれそうになったり、パトリックが校長にリトルべアーとカウボーイのプーンを見せてしまったり、プーンがリトルべアーの矢に射られて死にそうになったり、あるいは大切な鍵がなくなり、それを捜しに無防備なリトルべアーを一人でネズミのいる床下へ行かせてしまうなど、様々なことが次々と起こり、読者はハラハラしながら読み進む。しかし読後には先程の興奮や心配がまるでうそのように、満ち足りた心安らかな気分が残る。この不思議な満足感、安堵はどこからくるのであろう。一言でいうならば、私はそれを作者の人間に対する信頼感であると言いたい。オムリとリトルべアーの間の尊敬にも似た信頼感、いったんは風前の灯と化しながら回復したオムリとパトリックの友情、そして敵対し傷つけ合いながらも相手を救い義兄弟となるリトルべアーとブーンの友情、そして小さき人々の幸せのために、彼らをいつまでもそばに置いておきたいという自己本位な欲求を押さえ、別れのつらさに耐えて彼らを送りかえす少年たちの優しさ。これらのものの底辺に共通して存在するのは、人間を信じる作者の 優しい目であると私は感じずにはいられない。
また作品の終わりで、オムリは「魔法がもうこれでおわり、というわけじゃないんだ。」と言い、続編が書かれることをほのめかしている。それが私にまた別の意味での安心感を与えているとも言える。つまりまたあの小さな人たちに会えるかもしれない、という期待が、彼らと別れる悲レさを忘れさせるのである。事実、作者は未邦訳だが二冊の続編を既に書いている。これらの続編が邦訳される日が今から楽しみである。(南部英子
図書新聞1990/03/24