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佐藤紅緑に『あゝ玉杯に花うけて』という作品がある。昭和二年(一九二七年)五月号より昭和三年(一九二八年)四月号まで雑誌「少年倶楽部」に連載された作品である。 「満天下の少年が熱読すべき立志小説」「文壇の大家佐藤紅緑先生が、前途ある天下の少年に対する、燃ゆるような熱情から、心血をそそいで執筆された一代の大傑作!」と記されている。 もちろん、この作品が連載されていた時点で、わたしは生まれていない。わたしは母親の胎内にいる。だから、連載の事実も、その予告文も、約四○年以上たって「復刻版」で見ているにすぎない。しかし、この作品が、連載完結後、単行本として出版され、版を重ねて新たな読者を獲得していった時期、わたしはいわゆる「少年時代」を通過していた。つまり、この作品と共に「成長する」ことはなかったとしても、この作品が存在した時代、(あるいは、この作品が多くの読者を持ちえた時代)わたしは、そのすぐそばにいたということである。 この作品の、あるいは佐藤紅緑の「熱狂的なファン」というものはいたらしい。そうした現在の大人にとっては、「いたらしい」とは何事だといわれそうである。現に、紅緑の作品を語る時、目を細める経理学佼の先生を知っている。わたしと少年期を前後するそうした読者は、佐藤紅緑が、自己形成の過程」で大きい役割を果したという。間違いではないだろう。子どもの時代、じぶんを垂直に貫く形にならない何かを、だれだって一つや二つは持っものだからである。手塚治虫が、あるいは、白土三平やつげ義春が、佐藤紅緑にかわって、目を細めて「ふりかえられる」時代がくるに違いない。それは、『怪獣たちのいるところ』を生みだしたモーリス・センダクが、ウォルト・ディズニーをかつての偶像として「ふりかえった」のとおなじである。 ところで、わたしは「佐藤紅緑のそばにいた」といった。しかし、ついに佐藤紅緑のファンにはならなかった。佐藤紅緑の本を知っていたが、一度も手をのばそうとはしなかった。その時代、もちろん、どうしてそうなのか、じぶんで説明できることではなかった。しかし、はじめに記したように、四○年以上たって「復刻版」で対面した時、その理由を見つけたような気がした。 昭和三年の二月号にあたる個所がそれである。浦和中学四年になった柳光一が、手塚という同級生に注意を促しにいく場面である。手塚という中学生は、「不良少年」という評判を立てられている。ながくなるが、その個所を引用してみる。 「何の用だ」と手塚は不平そうにいった。 「君は制裁を受けなきゃならなくなったんだ、其の前に僕は一応君に忠告する。僕の忠告をきいてくれたら僕は生命に代えても君を保護しようし、また学校でも君を恕す事になっている」 「恕されなくてもいいよ、僕はなんにも悪い事をしない」 「それがいけないよ、なあ手塚、人は誰でも過失があるんだ、それを改めればそれでいい」 「僕に改めるべき点があるのか」 「あるよ、手塚、学校ではね、此の頃不良少年があると言って頻りに捜してるんだ、其の候補者として君が数えられて居る」 「僕が不良?」 「君はよく考えて見給え」 「僕は考える必要がない」 「じゃ君、活動へ行くのは?」 「活動へ行くのが不良なら、天下の人はみな不良だ」 「そうじゃない、君は何のために活動へ行くのだ」 「面白いからさ」 「面白いかね、あんな不純なもの、あんな醜悪なものは面白いかね」 引用しながら、ばかばかしくなっている。活動とは、いうまでもなく「活動写真」である。映画である。昭和五一年現在、こういう忠告を受けたなら、子どもは理解できないだろう。映像文化の功罪は、さまざまに論議されていても、それに関わりなく「映画」は子どもの日常にはいりこんできている。テレビそのものが、茶の間に坐りこんだ映画館とおなじである。「質」や「内容」、あるいは「場」の時代的差異を指摘するむきもあるかもしれない。しかし、「娯楽」というものが人間生活で果す役割は、それほど差異があるとは思えない。紅緑のこの作品が書かれ(また、読まれ)た時点では、「娯楽」に対する評価が違っていた。というより、特定の価値観が幅をきかせ、それに迎合できないもの、その尺度からはみだす人間の営みが蔑視されていたにすぎない。引用をもうすこし続けてみよう。手塚と光一はさらに言いあう。 「人は好きずきだよ。他人の趣味に干渉して貰いたくないね」 「いやそうじゃない、僕は君と小学校からの友であり同じく野球部員である以上は、君の堕落を見過ごす事は出来ない。ねえ手塚、君は活動が好きだから見てもさしつかえないと言うが、好きだからって毒を食べたら死んでしまう、活動は最も低級で俗悪で下劣な趣味だ、下劣な趣味に耽ると人格が下劣になる、僕はそれを言うのだ」 「活動は決して下劣じゃない」と手塚は言った。彼は光一の言ったことが充分に解らないのである。 「じゃ君は活動のどういう点が好きか」 「近藤勇は義侠の志士じゃないか」 「其処だ、君は近藤勇を充分に知りたければ維新の史料を読み給え、愚劣な作を愚劣な役者が扮した近藤勇を見るよりも、専門家が調べた歴史を読み、静かに考える方がどれだけ面白いか知れない、活動の小屋は豚小屋の様だ、掃き溜めの様だ。あんな悪い空気を呼吸するよりも山や野や但しは君の清浄な書斎で本を読む方がどれだけいいか知れない。活動なんて卑しいものを見ずに、もっと立派な趣味を楽しむ事は出来ないのか、高尚で健全で男性的な趣味は他にいくらでもある、趣味が劣等だと人格も劣等になる、君はそれを考えないのか」 「僕は劣等だと思わない」と手塚は繰り返した。光一はどうしても高尚な意義を理解する事が出来ない手塚の低級に呆れてじっと顔を見詰めた。歴史を読み聖賢や英雄の伝記を読み、山に野に遊び、野球を練習する。それだけでも活動より遥かに面白かるべき筈だのに、どうして見る見る掃き溜めの中に堕ちて行くんだろう。 「気の毒だ、可哀そうだ」 光一は胸一ぱいになった。 佐藤紅緑が、その作品の中で、こうした大演説をぶつ一方、私生活では、「少年むけタテマエ」とは反対に私情に溺れていったことは、佐藤愛子の『花はくれない』(講談社、一九六七年)によく描かれている。 「私が父の中で最も批判したのはその矛盾である。父は独善的で我儘だった。その小説の中で質実剛健や貧乏を礼讃しながら、自分は賛沢だった。少年読者に親孝行を説いたが父は親孝行ではなかった。人にお世辞を使うのがうまく、またすぐに人のお世辞に乗った。礼儀にうるさく、行儀は悪かった」。 佐藤愛子のこの作品は、いわゆる「暴露話」ではない。単純で一本気なひとりの人間の、波乱にみちた生きざまを浮き彫りにしようとしている。矛盾のない人間はない。それをどれほど自覚し、どのように対処するかが、それぞれの問題である。紅緑は、じぷんの記すタテマエと、じぶんをゆすぷるホンネの間を、埋めようとしなかったともいえる。それはそれでひとつの生である。大人としての読者は、「小説・佐藤紅緑」の中に、人間の悲しさを感じとればいい。しかし、佐藤紅緑が、右に引用したような『あゝ玉杯に花うけて』を書いた時点で、子どもであった読者は、そうした人間認識を持たない。そこに語られることば、重苦しい道徳律として読者を制約する。 わたしは、一度として佐藤紅緑の作品に手をのばさなかったと記したが、それは、中学生・柳光一の形をとって(その口を借りて)、佐藤紅緑が批難したことと関わっている。この作品の中の「不良少年」手塚同様、わたしの少年時代は、「活動写真」と密接につながっていたからである。わたしは佐藤紅緑の中に、本能的に避けるべきものを感じとっていたのかもしれない。今、柳光一の言葉を書き写しながら、これではたまったものじゃないな……と感じている。この思いあがりと、一方的なきめつけ方。こういう発想を、正義や善意の偏狭な提供というのだろう。そして、こういう作品の迎え入れられる時代が、わたしの少年期であった。 わたしは、そうした中で、高垣眸の作品を読んだ。『怪傑黒頭巾』や『まぼろし城』を再読三読した。大仏次郎の『鞍馬天狗・角兵衛獅子』もその中にある。現在、「少年倶楽部文庫」として新版されている作品は、佐藤紅緑のものをのぞいて、ほとんどが愛読書だったといえる。しかし、紙の中のさまざまな剣士や名探偵にいやまさって、わたしを魅了したものはスクリーンの上のヒーローたちである。『魔像』『牢獄の花嫁』『風雲将棋谷』の阪東妻三郎。その存在は、『天狗廻状』『血染の手型』『横浜にあらわれた鞍馬天狗』の嵐寛寿郎と共に、わたしの中に続く一種の白日夢だった。これは、「教育勅語」と「軍人勅諭」の直結する状況の中で、その枠組から「もうひとつの世界」へ抜けだすための「通路」が銀幕だったということになる。『ぺぺル・モコ』や『法界坊』や『ちゃっきり金太』を思い浮べる時、多少「郷愁的」な思いが湧きあがらないでもない。しかし、百本以上にわたる映画のタイトルを列記することが、目的ではない。佐藤紅緑が、中学生の光一を通して、「高尚な意義を理解する事の出来ない手塚の低級」といい切ったそこに、わたしは逆に、「生きる楽しさ」を発見してい たということである。 佐藤紅緑の「熱血立志小説」の愛読者たちは、すべて柳光一のような少年に成長していったのだろうか。それとも、長じて、紅緑その人が歩んだように、タテマエとホンネをきれいにわけて、その二つの在り方を使いわけるのに何の矛盾をも抱かなかったのだろうか。もしそうなら、紅緑は、もっとも日本的な精神構造の形成に功績のあった作家といわねばならない。しかし、臆測はさて置いて、紅緑が果した役割は、空想世界の「おもしろさ」というものを、事、映画に関していえば、片隅に押しやることをしたことだといえるだろう。 この雑文を書くために、わたしは久しぶりに『角兵衛獅子』を読みかえしてみた。『あゝ玉杯に花うけて』の主人公たちが、わたしを見くだす彼岸のヒーローとするなら、鞍馬天狗は、その頃わたしの中を走り続けるヒーローだったからである。正直いって、大仏次郎の鞍馬天狗にはがっかりした。伊藤彦造の挿絵からして「わたしの鞍馬天狗」ではない。後半、大坂城の水牢に閉じこめられた天狗を、杉作少年が泣いて助けようとする場面がある。近藤勇が、それに応えて天狗の命を助ける。違うな、と思った。「わたしの鞍馬天狗」には、こういうめめしさはない。それに、もっとも気にくわなかったのは、杉作が、鞍馬天狗のためには命も投げだす「いい子」であったことだ。この物語には、隼の長七という目明しが登場する。杉作はじめ角兵衛獅子の子どもたちを利用する仕組になっている。しかし、よく考えてみれば、この少年は、長七どころか、作者自身にも道具として利用されたことにはならないのか。天狗のおじさんのためにだけ生きる献身的な少年像。わたしはここにも、佐藤紅緑とは別のうさんくさい人間観を感じた。 それにしても、「わたしの鞍馬天狗」は、活字の世界のそれではなく、スクリーンのそれである。とりわけ、少年期に見た嵐寛寿郎のさっそうたる姿である。それやこれやで、わたしは一冊の本を買ってきた。竹中労『鞍馬天狗のおじさんは・聞書アラカン一代』(白川書院)がそれである。その中に、「戦後」の鞍馬天狗に関する嵐寛寿郎のこういう言葉があった。 「鞍馬天狗は大当りでした。松竹三本、新東宝では昭和二十八年、『青銅鬼』を撮りました。(中略)この作品と前後して、東映でも四本撮りました。(中略)このとき、〃文芸家協会〃から待ったをかけられました。昭和二十八年十月二十日の封切りを前にして、無断映画化である、上映を中止せいと抗議をしてきよった。 青天のへキレキですわ、ワテの知らんことや。原作者の大仏次郎先生、ツムジを曲げておられる。(中略)はいな大仏次郎先生が許さんと、〃天狗プロダクション〃つくらはって、ご自分で製作する。寛寿郎のものやない『正統の鞍馬天狗』だと。ワテは泣きました。ほんまに泣きましたで、これが大仏先生の真意かと疑いました。そら原作者の眼からみたら、ずいぶんと不満もあるやろ、せやけど天狗ワテがつくった。これをゆうたらあかん、しかし小説が売れた理由の一つはワテや、ワテの立ち廻りや、あのフクメンかて工夫をしたのはワテや。 昭和二年のデビューから、天狗三十年、それをものともいわずとりあげよるんダ。はいな、役者虫けらや。これ胸にたまっていたことでおます、言わせてほしい。(以下略)」 この一冊は、きわめて興味深い映画史でもある。人間の記録としてもおもしろい。しかし、それを横に置いていえば、この一文を引用したのは、「わたしの鞍馬天狗」がこういう形で殺されていったということを告げたいためである。わたしは、ここで語られている戦後の作品を見ていない。しかし、太平洋戦争最盛期に見た『横浜にあらわれた鞍馬天狗』は、「わたしの鞍馬天狗」の最後の姿でもあり、それは今も、紅緑を押しのけて、わたしの中を走っているということである。 『われらの時代のピーターパン』(晶文社 1978/12/20 「児童文化」2号 1976/12 ) |
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