3 シンデレラ
 マーチ家の四人の娘たちの中でシンデレラのもつ美徳を最も多くそなえて物語に登場するのは、言うまでもなく、ベスである。なにしろ彼女は「家庭的な娘で、外で働く母や姉たちのために家をきちんと片づけ、気持ちよく整えてハンナの手助けをしたが、そのために報酬をのぞむようなことはなく、ただかわいがってもらえばいいのであった」。そしてマーチ家のおんぼろピアノを機嫌良く弾きながら、「あたしいい子だったら、いつかきっと音楽が習えるんだわ」と「毎日毎日のぞみを失わずに自分に言いきかせる」ほどに、けなげで一途な性格の持ち主でもあった。
 だから周知のように、ベスのその望みは早々にかなえられることになる。おそらく親切な妖精が隣家のローレンス氏に働きかけてくれたのだろう。氏の孫娘の遺品である高級小型ピアノがベスにプレゼントされ、マーチ家の居間の風景と一家の音楽環境はにわかに数段グレードアップする。と同時に、ここが肝心なところなのだが、ベス本人もそれをきっかけに、変わる。極度に内気で恥ずかしがり屋だった彼女が一大決心をして一人でローレンス氏を訪れ、氏にお礼のキッスをするのだ。氏の感激はもちろんのこと、マーチ家の姉妹たちも、やれ奇跡が起こったの、地球がでんぐり返るのと大騒ぎするほど、それは画期的な出来事であった。
 確かに、ベスは自分自身の力によってピアノを得たわけではない。シンデレラ同様彼女もただ願い続けただけなのだが、その他力本願を非難する者はおそらくだれもいないだろう。願いがかなった彼女の喜びは、読者も含めて、そのことにかかわったすべての人々を幸せにする。これぞおとぎ話のヒロインの真骨頂ではなかろうか。
 けれども、ベスに関する∧大変身∨はこれですべてである。将来の夢は何かときかれて「あの小さなピアノをいただいてから、私はもうほしいものないのよ。私ただ、みんながいつまでも丈夫でいて、いつまでもいっしょにいられればいいと思うの、それだけよ」と答える彼女は、将来大人の女として生きるためのヴィジョンを何も持っていない。そのせいなのだろう、ベスはその後猩紅熱にかかり、いったんは一命をとりとめるものの、続編では再び衰弱し始めて、ついには他界してしまう。大人になる意志をもたない彼女は、王子との出会いも望まないゆえに、シンデレラになる資格はないのだ。
 一方、マーチ家の残りの三姉妹にはそれぞれ将来にかける夢があり、具体的に何をするかという展望は三人三様だが、いずれもより裕福な生活を願っている点では思いは一致している。よって、この物語は彼女たちがいかに自分の夢を実現するかを競い合う話であるともとれるし、見方をかえると、三人で一人の王子を争う話であるともとれる。一人の王子、すなわち、ローレンス家のローリーを。
 マーチ家の三姉妹がシンデレラの候補者でしかないのに対して、家柄、財産、容貌、人柄ともに申し分ないローリーは、最初から紛れもないプリンス・チャーミングとして物語に登場する。また、マーチ家の姉妹は、ベスも含めて、全員が話の中で一度はローリーの花嫁候補として取り沙汰され、ローレンス老人も最愛の孫が四姉妹のだれかと結婚することを心から望むようになる。そして、ベス以外の三人はいずれも舞踏会でローリーと踊り、彼からパートナーとしての評価を受ける機会を持つのだ。
 これらの場面を順に見てみよう。
 まず、物語が始まって間もない時期に、ジョーが彼の最初のパートナーとなる。近所のガーディナー家が大晦日に開いたパーティーに彼女とメグが招待されたのだが、メグが精一杯着飾って出かけたのに対し、ジョーの方は最悪。シンデレラ候補者としての自覚に欠ける彼女は、鉤裂きのあとを繕い、焼け焦げにつぎを当てたドレス−−まさに妖精が魔法のつえを振る前の、下働きの女中さながらの姿で王子の前に現れるのだ。しかし、王子は衣装のことは意に介さずもっぱら彼女との会話を楽しみ、ドイツ風の活発なステップを教えて彼女を喜ばせる。「ジョーの男のような態度がおもしろくて、気が楽になった」王子は、ほかの少女と踊ろうとはせずにずっと彼女と過ごす。
 こうして二人は意気投合するわけだが、もちろんそれはあくまでも良き友達としてのことで、すぐにロマンスに結びつくようなものではない。この時点でまだ「遊びだって仕事だって態度だって、男の子のようにやりたい」心境のジョーにはもとからその気がなかったし、王子の方には実はほかにも気になる異性の存在があった。彼はメグの美しさに目をとめ、ジョーとの会話でも「あのきれいな上靴をはいたお嬢さん」「おとなのようにお踊りになる」などと彼女のことを話題にしているのだ。ところが、そのすぐ後にメグはその「きれいな上靴」が小さすぎたために足を痛めて歩けなくなるのだから、彼女のシンデレラ候補としての命運も先が見えたというところか。
 いずれにしても、ここで王子がメグの美しさに引かれたということは、彼がジョーに抱いた好意が異性に対するものでないことの傍証でもあり、その点、シンデレラ候補としてのジョーの先行きも決して楽観はできないのである。
 さて、ガーディナー家のパーティーでは、王子の目にとまりながらも彼と踊る機会をえられなかったメグに、いよいよチャンスがめぐってくる。彼女が友人サリーに招待されて滞在していたモファット家のパーティーに、王子も招かれて同席するのである。しかし、メグは複雑な心境でその日を迎える。同家での滞在もそろそろ終わりに近づいたそのころ、初めて経験した上流階級の暮らしに彼女はひどく劣等感を刺激されていたのだ。特に周囲の少女たちの絹やレースのドレスに比べると、家から持参した服はどれもいかにも見すぼらしく、初めのうちこそ生花を飾るなど工夫をこらしてみたものの、次第にそれだけで我慢できなくなってきていた。
 すると、まさにシンデレラよろしく、彼女の前にも親切な妖精が出現する。モファット家の娘たちに身をやつしたこの妖精は、メグの夢だった絹の衣装や高価な装身具を気前よく貸し与え、彼女はうれしさ半分後ろめたさ半分の高鳴る胸をおさえて王子と顔を合わせる。ところが、居ならぶ青年たちの賞賛のまなざしに反して、王子の態度はいたって冷たかった。彼はコルセットで締めつけた露出度の高いドレスと派手な化粧に眉をひそめ、こう言い放つのだ。「ぼくはばか騒ぎをしたり飾り立てたりするのがきらいなんです」。残念ながら、メグの妖精はあまり趣味がよろしくなかったのである。
 そしてこの王子の拒絶によるショックもまださめやらぬうちに、かわいそうにメグはさらなる打撃を受けることになる。かねてから彼女に関心を示していたリンカーン少佐なる人物が、母親にこう話しかけるのを聞いてしまうのだ。「私はお母さまにあのひとをお目にかけたかったんですが、すっかりだめにされてしまいました。今晩のあのひとはただの人形です」。こうして彼女はいわば補欠の王子からも拒絶されてしまう。
 その後しばらくしてメグはローリー王子と組んで踊るが、それはすっかり後悔した彼女と、率直すぎたことを反省した彼との仲直りのダンスであって、求愛のダンスではない。ちなみに、モファット家の妖精たちの名誉のために一言申し添えるなら、このとき彼女らがメグのために用意した「かわいい青い靴」だけはたいそう王子のお気に召したのであり、彼女の足にもぴったり合って、かのガーディナー家での失態はこれで帳消しかとも思われたのだが、時すでに遅し。二人の王子に立て続けに拒絶されたとあれば候補の看板返上は当然のこと、その夜彼女があおった何杯かのシャンパンは、陽気なうかれ酒ならぬ、一生一度のやけ酒というべきだろう。
 実際、メグは相当に深刻な打撃を受けていた。ジョーとエイミーがそれぞれ自分の実力を世に認められた結果としての「裕福な暮らし」を将来に望んでいるのに対し、メグの夢はそういった経過ぬきでただただ「裕福な暮らし」をすることにある。姉妹の中で最初に生まれ、以前の豊かな暮らしを鮮明に記憶している彼女が、そう願うのは無理もない。そして、ジョーが文学の、ベスが音楽の、エイミーが美術の才能にそれぞれ恵まれている中で、彼女だけがそれらに相当するものを何ももたない以上、彼女がその望みをかなえるためには王子に見初められるしかない。それなのに、いざ本気でシンデレラになろうとしたとたんにそれを真っ向から否定されたのだから、これが致命傷になったとしても不思議はない。メグはこの時点で競争から敗退し、それと同時におとぎ話のヒロインとなる権利も失ってしまう。
 その後メグは当初の望みを大幅に修正したかのそぶりを見せて、王子の元家庭教師ジョン・ブルックと結婚するが、この結婚にはおとぎ話的な要素は一つもない。ジョンは王子でも野獣でもない、実に平凡な善人にすぎず、彼と結婚したからといってメグの人生は少しも変わらない。彼女はその後もぜいたくな暮らしと美しい衣装への執着を捨て切れず、性懲りもなく愚かな過ちをくり返す。確かに、その弱点も少しずつ克服されてはゆくのだが、「少しずつ」ではおとぎ話とは言えない。第一、おとぎ話なら「それから二人はずっと幸せに暮らしましたとさ」で幕切れとなるところを、メグの場合はその弱点克復のプロセスも含め、貧しい新婚家庭の舞台裏を根ほり葉ほり詮索され続け、果ては夫婦げんかの顛末までいちいち暴露されるのだから、全く気の毒としかいいようがない。
 さて、そうなると残る候補はエイミーしかいないわけだが、最年少の彼女が王子と踊る機会を得るのは、当然ながらずっと後のことになる。叔母一家の付き添いとしてヨーロッパ各地を旅行していたエイミーが、滞在中のニースで数年ぶりに王子と再会し、そろってホテルのクリスマス・パーティーに出かけるのだが、このときの彼女もまた、モファット家でのメグ同様、その場にふさわしい衣装の持ち合わせがなかった。しかし自らの美的センスに自信のある彼女は、妖精の手を借りる前に「新鮮な切り花やわずかばかりの細工品を用い、その他なんでも安くて効果的な工夫をこらし」て、粗末な服を飾った。すっかり魅了された王子は、美しい令嬢の大勢いる中でもっぱらエイミーとだけ踊り、彼女がほかの人と踊っている間は「まるで羽でも生えているかのよう」な「彼女の白繻子の靴」をじっとみつめる。彼は、彼女の美貌それ自体にもまして、その美貌をいっそう引き立てる才覚に魅了されたのである。
 ところはフランスきっての高級ホテル、ロシアの皇族やポーランドの伯爵も同席する国際的な社交の場である。同じパーティーといっても、その規模といい、集まった人々のエレガントさといい、ジョーやメグの場合とは比較にならない華やかさ・・・。まさに真正のシンデレラにうってつけの舞台であろう。
 (ついでながら、ここでのエイミーの成功はモファット家でのメグの失敗の裏返しであることも指摘しておきたい。つまり、すでに敗北の確定したメグが、気の毒に、再び打ち負かされるのだ。何も悪いことをしないのにこういう貧乏くじを引くのが、おとぎ話のヒロインの姉の宿命なのである。)
 それから数カ月をへて二人は結婚し、貧しく才能ある青少年のパトロンという、まことに王子と王女にふさわしい将来を夢見始めるのだが、その際のエイミーの言葉に注目すべき次のようなものがある。「・・・他に助けを乞うことができなくて、だまって苦しんでいる階級がありますわね。そのほうは私も少し知ってますのよ。だって昔噺の王様が乞食の娘をお姫さまにしたように、あなたが私をお姫さまにしてくださる前は、私はそういう階級にいたのですもの」。また、王子と再会する前、ヨーロッパに旅立った時点で、彼女は旅先から母に充ててこう書き送ったことがある。「私たちのうちひとりぐらいは裕福な結婚をしなくてはならないと思います。・・・ですから私がそれをしてみんなを楽しく暮らさせて上げたいと思います」。つまり、彼女は自覚的にシンデレラになることを目指し、見事それに成功したということになる。
 ふり返れば、乳児期にジョーの過失で石炭入れに落とされて(おかげで鼻が低くなって)以来、エイミーは他の姉妹にはほとんど無縁の心身への虐待をいくつも経験しながら大きくなった。少女時代にはジョーとのいさかいの結果、怒鳴られ、こづかれ、はり倒されたあげく、凍てついた川に落ちて危うく死ぬところだった。ベスが発病した際にはマーチ伯母の家に幽閉されてこき使われ、塩漬けライムを学校に持って行ったときには、級友に告げ口された上に鞭打たれもした。また長じては、彼女の美貌とセンスの良さが他の少女たちの嫉妬を誘い、いじめとしか言いようのない理不尽な仕打ちを受けたこともあった。そうして傷つくたびに、彼女は無私と従順、忍耐と勤勉を学び、より強く賢くなっていったのだ。この生い立ちから見ても、エイミーこそが姉妹の中で最もシンデレラにふさわしいのは明らかだろう。彼女はだてに末っ子だったわけではないのだ。
 それでは、いったいジョーはどうなるのか。結論から言えば、シンデレラなど柄ではないと最初から自覚していた彼女は、早々に候補を辞退してその代わりにビューティとなる。思えば、読書好きなところや父のためにすすんで犠牲を払う(髪を切る)エピソードなど、ジョーにはビューティとの共通点も多い。だが一方では、周知のように、無私と勤勉はともかく、従順と忍耐とは全く無縁の彼女であれば、ビューティへの道もさぞかし長く険しいものだろうと予想される。

  4 ビューティ
 ジョーが自分では気づかずにその道を歩み始めるのは、メグに双子が生まれ、エイミーがヨーロッパに発ってしばらくしたころ。ジョーこそシンデレラと思い込んだ王子の求愛を逃れ、彼女が単身ニューヨークに赴いたことがきっかけとなる。大都会で文学修行をという目論見もあったが、表向きは下宿屋を営む知人の求人に応じて、家庭教師と針仕事という典型的な女の仕事をしに出かけたのだ。
 そして、彼女はそこで一頭の野獣と出会う。すでに中年のこの野獣は「頭には茶色い毛を無造作にもつれさせ、もじゃもじゃの髯をはやし」「洋服は色あせ」「上着のボタンは二つもとれ」「靴は片方つぎがあたっていて」、食物を「がつがつ掻っ込む様子」はまことに見苦しく、しかも名前をベアというのだ。だがその人柄は誠実温厚、文学芸術を深く愛する教養人でもあり、ジョーはすぐに信頼を寄せるようになる。けれども貧しいドイツ移民という境遇のために彼が求愛を躊躇している間に、予定の滞在期間を終えた彼女はさっさと帰宅してしまう。
 帰宅した彼女を待ちうけていたのは、今や衰弱しきったベス。そこでジョーは当面妹の看病に明け暮れ、その最期を看取ったあとは「私が行ってしまったら、私の代わりになって」という彼女の遺言どおりに、家の中のベスの役割を引き継いで、慣れない家事に心身を疲労させる。ちょうどビューティが姉たちの策略によって実家に留め置かれ、野獣との約束から目をそむけてしまったように、ジョーもまた妹によって実家につなぎとめられ、野獣のことはしばし忘れてしまうのだ。だが、もしこの時期がなければ彼女はとうていビューティとなる資格を得られなかったろう。悲しみに耐え、妹と両親にひたすら尽くし、家事に専念することを強いられたこの期間は、彼女にとってさながらヒロイン養成講座の短期集中・地獄の特訓コースだった。
 やがてジョーが孤独の中で野獣を懐かしむ心境になったころ、彼は絶妙のタイミングでマーチ家の玄関に立ち、そのときジョーの目には彼が王子ならぬジュピターに見えるのである。もちろんこれはジョーの内面が変わったからで、野獣自身は少しも変わっていない。別離期間中に経験した孤独と心の葛藤が、いっしょにいる間はわからなかった彼の美点を彼女に気づかせたのだ。シンデレラは妖精と王子によって∧大変身∨に導かれるが、ビューティは自力でそれを果たす。それがこの二人のヒロインの違いであり、一般にシンデレラよりもビューティの方がより望ましい成熟を遂げたと考えられている理由でもある。したがって、この物語の主人公ジョーにシンデレラでなくビューティの役が振られているのは、しごくもっともなことではある。
 しかし、このめでたいハッピー・エンディングに水をさす出来事が二つある。ひとつは、ほかならぬ野獣が、自分は野獣ではなく、呪いで野獣にされていたのでもなく、最初からずっと王子だったのだと主張していることである。つまりジョーの心は「お伽噺の王子さま」が「森の中からやってきてゆりおこすまで、眠っていた」のだと。なんという誤解! この勘違いとその底にすけて見える彼の支配的な体質がジョーの将来に影を落とさねばよいのだが、そこはおとぎ話、そんな先の心配は野暮というものだろう。
 よって、二つ目の出来事の方がより重要となる。それはこの時点ですでに自他ともに認めるシンデレラとなっていたエイミーが、実はそうなる過程でビューティの役も兼ねるという、一人二役のはなれ業を演じていたのではないかと思われることである。
 それというのも、ニースでエイミーと再会したときの王子は以前の完璧なプリンス・チャーミングではなかった。ジョーに振られた傷心旅行にヨーロッパに来ていた彼は、祖父が甘やかしてくれるのをいいことにずっと放蕩を続けていたのだ。例のパーティーのときこそ王子らしく振る舞ったものの、そのままずるずるとエイミーのそばに一カ月も滞在し続けるころには、彼に対する彼女の評価は下がるばかり。王子本人も自分の不甲斐なさは十分承知していたが、彼はそれをすべてジョーのせいにしていた。いわば、自分は魔女ジョーの呪いによって野獣にされてしまったのだと、自分で自分に言い訳をしていたのである。しかし、エイミーは容赦なく彼を「のらくらローレンス」と呼び、「私あなたを軽蔑していますのよ」と告げる。その率直な言葉に撃たれたショックによって、彼はハッと我に返るのだ。
 ちなみに、このあたりの展開は「美女と野獣」より、昔話研究で同じ動物の花婿型の話に分類される「カエルの王子」の方によく似ているかもしれない。しつこく王女につきまとっていたカエルが、業を煮やした彼女に「このいやらしいカエル!」と壁にたたきつけられたとたん、元の王子に戻るというあの話であるが、いずれにしても、クライマックスの∧大変身∨が野獣(カエル)でなくヒロインによってもたらされるところが、これらの物語のポイントである。
 さて、正気を取り戻した王子は、わが身の醜い毛皮を恥じてただちにエイミーのもとを去り、二人の間には何カ月かの別離期間が生じる。この間、彼が心を入れ替えて仕事に励んだのはもちろんのこと、エイミーもまた重要な転機を迎えることになる。前述のように彼女はこの時点で真剣にシンデレラを目指しており、具体的にも「ローレンス家よりずっとお金持ち」のイギリス青年と婚約直前までこぎつけていた。だが結局彼女はその青年の申し込みをことわる。「彼女の心をやさしい希望と不安でいっぱいにしている新しいあこがれを満たすには、お金や地位以上のあるものが必要だということに気がついたのであった」。それからしばらくしてエイミーのもとにベス死去の知らせが届き、喪中の彼女を王子が見舞って、二人はまもなく婚約する。
 つまりエイミーはシンデレラとして王子を魅了し、ビューティとして野獣への愛情に目覚め、最後に自分の手で王子に戻した彼とシンデレラ/ビューティとして結ばれるのだ。そしてその過程で起こる∧大変身∨の数々・・・。このはなばなしさに比べれば、ジョーのそれなどなにほどのものだろう。小説『若草物語』の主人公はジョーだが、おとぎ話『若草物語』のヒロインは間違いなくエイミーなのである。

  5 おわりに
 このように作品中の主人公とヒロインが別立てになっていることには、どういう意味があるのだろうか。
 姉妹が「お父様のかわいい娘」から「だんな様の良き妻」へと至った道は、ジョーとエイミーがそれぞれおとぎ話のヒロインの資質を獲得すべく精進する過程を通じて、またおなじみの∧大変身∨の心地よい衝撃を通じて、読者の胸に強く印象づけられるに違いない。けれども、その道を極めるにあたってジョーがナンバー2の地位に甘んじたことは、結果的にその道そのものの価値を減じる方向に働くのではないか。なぜなら私の知る限り、見事真正ヒロインの座に輝いたからといって、エイミーに対する評価が少しでも上がったという少女読者はひとりもいないからだ。少女たちはそれでもやはりジョーが一番好きなのだ。だが、そのジョーも最終的にはその道を選んだということもまた確かなことなのである。
 『若草物語』は真に古めかしい少女読み物なのか、それとも、古めかしさをたくみに装ったなにか別のものなのかという議論は、作家オルコットの二面性を追及する議論とともに、これからも活発に続けられることだろう。あるいは、少女読み物としてのおとぎ話を再考し、再構築する議論とともに。
 おとぎ話だってたまには∧大変身∨したいだろうから。

 付記
 本稿は一九九八年一〇月一一日、白百合女子大学で開催された日本イギリス児童文学会において行った講演をもとにしている。内容の構成にあたってはPh・ラルフ『ヴィクトリア朝のトランスフォーメーション−−おとぎ話と思春期と女性の成長小説』(一九八九年、未訳)R・マクギリス『小公女−−ジェンダーと帝国』(一九九六年、未訳)から多大の示唆をえた。なお、本文中の引用は吉田勝江訳『若草物語』『続若草物語』(角川文庫)によった。
横川寿美子
日本児童文学1999/03-04