続・愛の若草物語

ルイザ・メイ・オルコット
吉田勝江訳 角川文庫 1988/1869

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 続編については、作者の冒頭からの予言通り二二年後の四姉妹の「恋愛ざた」 (恋愛ごっこ?)から、病没してしまう三女ベス以外の、結婚に至るあたりまでを描いている。
家庭小説を読むという事で、例会でとりあげられた本であった。が、私は読み始めてから、嫌悪感で何度も本を放り出したくなってしまった。(お母さまさん、ご免なさい。)全編に漂っているように思われた「アク」って何なのか?
続編で、いよいよはっきりしてきたのは、マーチ夫人(マーチ家のあり方でもある)を、お手本として受け入れていく姉妹の生き方である。温順な長女メグは、大人しくて家庭的な青年ジョン・ブルックと結婚する。ジョンの書記の収入 (低いらしいが、どの程度かは不明。お手伝いさん云々と言っているから、中の下位か)で生計をたててゆく二人の、家庭生活のエピソードは、現実性がある。質素な生活が、それでも潤い豊かになったのは、幸にも二人を見守る人々の、愛情のこもった手仕事や心遣いであった。しあわせは、お金の高で得られるものではなく、心の通い合う人間関係に在ると明示している。
しかし、全編にわたりオルコット家の人々に深く関わる登場人物というのは、姉妹の配偶者や縁者という、結局は閉じた血縁集団である。信頼できる友人って、いなかったのかしら? したがって、このしあわせをもたらすものとして賛美されているのは、家族間の緊密な愛情(中身、あり方は?)という事になる。しかも、四女エーミーの相手、ローリー青年についても、次女ジョーの相手、べア氏についても、彼女達の生き方、価値観と異なるものを持たない、持ち込まない人々である。ローリーは年齢の割に、精神的にいつまでも幼稚に描かれ、その子供っぽさが、人格の純粋さであると誉めそやされている。ベア氏については、マーチ家の父親と相似してしまっている。彼らと彼女らの間には、関わり合う中で、自分の在り方に対峙させられるような苦い思いも無い、既知の世界しか広がっていない、と言ってもいいのではないか。
しかし、そういう生き方も、本人の自由な意志が尊重され、それに基づくものであるならば、他がとやかく言うものではなく結構なことではある。そして、その世界とは、マーチ夫妻の夢(マーチ氏の理想郷)を、娘たちがその家族をも組み込んで、家族愛の団結のもと実現してゆくという世界である。これは、ジョーが分身と考えられるオルコットの、実人生の夢、悲願であったらしい。理想主義者の父のもと、貧窮するオルコット家の経済を、彼女の文筆で支え続け、自身は亡くなるまで、残された親族の身の保障を案じ計っていたという。そうした自らの人生を賭けたまでの作者の思いが、作品に如実に表れているといっていいと思う。主だった面々が、オルコットの寄せる最愛の対象として、強い口吻で賞賛されずにはおかれないのも、成る程と思われる。
しかし、この作品が、オルコットの思惑通りの家族愛の美談とは思えない。一つには、女性の幸福が(この作品の主人公たちが、女性ばかりであるので、いやがうえにも女性が強調される)、結婚し家族をつくり、夫の世話、家事、子育てを専らとする妻、母となる事、何ものもこれに勝るものはないという結果に終わっている点である。
書かれたのが百二十年ほど前であるので、当時としては、大多数の女性が選択せざるを得なかった道ではあったかもしれない。が、自らの才能を伸ばして、友人も持ち、一人で生きてみたいと願う女性もいるだろう。また家庭を持つ事が即、女性自身は様々な可能性の追求は第二義にして、夫と子供の面倒をみるという役割人として生きる事とは、おかしい、変だ、嫌だ、くやしいと思う人もいたに違いない。逆に好きで選ぶという人もいるだろう。その人自身が自分を尊重でき、そのように他の人も尊重されるならば、女性の幸福は、家族のあり方は多様であってしかるべきである。にもかかわらず、これに勝るものはないと、フィクションにおいてさえ絶対化してしまった悲しさを感じる。
そしてそもそも、原書名「若草物語」がLittle Women で、続編であるこの作品は、Good Wivesである。成る程そういう話であったのかと、萎んだ期待は、見事にそこに落下するのである。
そして今も、社会背景も状況も変容しつつある私達の前には、日本書名に『愛の』という言葉がつけられて、この作品の神聖化(マーチ氏の信念に基づく宗教的な?愛、マーチ家の人々の間の家族愛を指すと思うが、そういう特殊であったり限界があるように思われる「愛」に対しても、つまりいかなる「愛」であれ、その在り方であったにせよ、『愛の』と名付けられる時、気高く犯し難い心性を描いたというイメ-ジが与えられる)と、普遍化(修飾される名詞を、その属性を示すという関係で表す格助詞『の』が用いられて、『愛』と『若草物語』がつながれる時、この物語の属性は愛であり、故にこの物語は普遍的である)とがなされ、この作品を全面肯定し、させてしまう社会の要望があるように思われる。
さて、「家族愛の美談」と思えない他の点は、その愛と在り方についてである。先にも触れたが、マーチ家の人々は、配偶者(しかも異なる価値観は持たない、持ち込まない人)や縁者という、けっきょくは縁戚者としか対等に交流していない。そして、嘘のように殆ど葛藤のないマーチ夫妻が中心の小宇宙を築いている。それは貧しい人々やジョーの好きな男の子等、恵まれないと思われる人々に、善意を施すことを最上の美徳と信じ、実践を行うという共通の認識と、相互の愛情で結ばれている。この点だけを見ると、立派で尊敬すべき「愛の一家」という事になるのかもしれない。しかし、信頼をおける人が縁戚者だけというのはどうだろう? また葛藤のない人間関係というのも不自然ではないのか? またその家族間での交流とそのしあわせを絶対化しているだけでなく、その中に優越感に満ちた排他的な匂いのする仲間意識が、潜んでいるような気がしてならない。そして、その善意意識の中にも、そもそも善意そのものがそういうものかもしれないがやはり自らの優越性を任じている気配を感じてしまうのである。
これは家族愛の美談ではなく、構成員を家族におくマーチ氏教とでも言うべき理念の、従順な信者の群れ、それが描かれているのではないか。時代を写した家庭や家族像に傾いているとしても、かくあるべきだと描かれた姿は、特異なものに変質してしまっているのではないか。オルコットの悲願であり、信奉した、父親の理念ばかりのために・・・。また、このようにしか規定しなかったオルコットの、主要メンバーに寄せる愛情は、その在り方は、そのままそのメンバーの人格にも反映していると思われる。なぜなら、一人は彼女の分身なのであり、他も理念の信者たるらしい。彼女の熱列支持する同質の人格者ばかりと見受けられるから。そして、その「愛」はどうも大変に、支配的なサディスティックな風を帯びているような気がするのである。オルコットが家族を死守し貫いた愛も、この作品に投影した愛も、投影された人物が持つ愛も、皆、支配者の愛であるように思われるのである。
慈善行為について彼らが、恵まれない人々が存在する事で、自分達がかように尊い(?)行いが出来ると感謝する場面があるが、まさしく彼らの発想は、支配できる事を感謝して愛そうとしているとしか思えない。またもし、葛藤が殆ど起こらないというのもその表れであるとも言えると思うが、姉妹の中で一人ぐらい、理念の外に秩序を破って出て行っていたら、あの家族はどのように対応したであろうかと思うのである。多様な価値観による生き方も、あの愛の中で認められたであろうか?
「アク」を感じてしまったのは、息づまるような、この自家中毒的な「愛」であったと、思い当たったような次第であった。(山口文子
児童文学評論24号 1988/09/01
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