われらの村がしずむ

ファンデル=ルフ:作
熊倉美康:訳 小林与志:絵
学習研究社 1958/1977

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 文明の進歩といえものは、それによって恩恵をこうむるはずの人間に、時として様々な問題を投げかける。例えば水力発電のための大型ダムの建設が具体的にその問題を浮かび上がらせる。電力は現在私たちにとってなくてはならないエネルギーであるが、それは何世代にもわたって谷あいに暮らしてきた人々やそこをテリトリーとする野生動植物たちの土地を水で埋めてしまう(破壊する)という過酷な犠牲によって供給されるという事実を忘れてはならない。最大多数の最大幸福、あるいは多数決の近代の論理が、少数者をかえりみないとしたら、私たちは大切なもの、本当に美しいものをどんどん失っていくのではなかろうか−−。ファンデル=ルフ女史はフランスのオート・ザボアの渓谷を舞台にこのことを訴えている。
 水没間近の村に二か月過ごして徹底的に記録を集め、あらゆる角度で調べあげたルフ女史は、世代や立場の違ういく通りもの《生き方》を多角的に捉えることにより、自然破壊や居住権、土地と伝統への愛着という公害問題をも越えて普遍的な問題をも提起していると思える。
 サンシルベストル村は、全村民がほこりとする貴重な文化遺産である一六七二年の祭壇の飾り絵を教会にもつ、古い伝統的な村である。この村がダムによって水没することを強いられたとき、村民たちの動揺がどんなに大きかったかは想像以上であろう。作者は、大人への入り口に立つピエール少年を主人公に若者の視点で貫こうとしながら、ピエールら四人兄弟姉妹の祖父であるペペじいさんを代表とする老人たちの土地への執着、ピエールの父でありペペじいさんにとっては娘むこであるエミル・バスカンら土地とは無関係に自立を図る大人たち、過去と引きかえに転機を望む利害関係に微妙なアンリ・ベルジュロンら降伏派、自己を越えて村民の明日を考え犠牲を幸運へ転化させようと奔走する神父ら献身派、体勢へはやばやと寝返る打算的な村長ら、体勢への抵抗のためなら手段を選ばない急進派のリュシアンら、そして自らの酷しい状況に耐え、幼い若者たちの孤独な心の動きを理解し、その支えになろうとする盲人のアルフォンス−−といった多様な人たちをも包みこもうとしている。
 つまり作者は、サンシルベストル村の水没をあくまで冷静に客観的に捉えようとしており、その意図は前述した普遍的なテーマを伏流させることで成功している。一つは、世代間、特に老人と若者の対立であり、一つは妻を失い、義父に実権をゆずりわたした男の孤独な自己確立の問題である。
 村が水没を間近にひかえた夜、二つの集会がもたれる。ペペじいさんとリュシアンが音頭をとる抗議集会と、村長や神父の指揮する明日を考える受け入れ派の集会。ピエールは弟のジャンジャクをさそって二つの集会をのぞく。何ものかに盗まれたダイナマイトがリュシアンの農場に隠されているのを見つけたピエールの心は激しく揺れ動く。祖父ペペじいさんの気持を理解しながら、世の中の変化を認め新しい道へ進もうとするピエールは、祖父が急進派のリュシアンにだまされてダム爆破の件に加わっているのではと案じる。祖父を救うためには村から連れ出すこと以外にないと思ったピエールは、大統領直訴という最後の切り札を祖父に話す。ペペじいさんとピエールは文明の進歩の象徴であるパリで、交通公害や身分証明書だけが人間存在のアリバイという状況を見て村への愛着を増すが、妹のフランシーヌは便利さに目を奪われる。奇跡的に大統領に面会を許されるが、結果はおみやげをもらって追い払われたにすぎない。新聞記事を見て事態の緊迫を知ったピエールは、一人先に村へ帰るがリュシアンの農場が何者かにダイナマイトで爆破される。なぞのこの事件は未解決のまま、ついに村人らは 新しい土地へ向けて出発する。ピエールの父は大工仕事の注文により自立をするが、ペペじいさんは新しくできた湖へ身を投げる。
 メイン・プロットはおよそこのようであるが、胸を打つのは前途に思いをはせる主人公ピエールの<成長>ではなく、二つの悲しみである。一つは死をもって自らの土地へ帰っていったペペじいさんの孤独であり、一つは祖父の孤立と引きかえにしか自己を取りもどすことのできなかったエミル・バスカンの心である。ペペじいさんの死は土地への執着を越えて《老い》の問題を露呈する。「若いときに船に乗りたがっていたこと覚えてるか」と幼なじみのベベットばあさんに言われるこの老人は、「若いもんちゅうのはいつも新しいことをしたがる」ことを知りながら、電気カミソリと引きかえに失ってはならない人間の豊かな心、素朴な心のふれあいを誰よりも知っている、いわば人間の本質的な存在を主張する代弁者である。
 ピエールの父は妻をなくしたショックで放心状態のようになっている。大工という唯一の自己主張も水没問題で仕事はなく、実権を譲った義父への眼差しにだけまだ男の意地を残している。子供たちは「父の目つきの意味を知ることができなかった。」だが、ピエールだけは様々な体験の中で父の心に近づいていく。父にとっては状況の変化が転機になるのではと思う少年の心は、ダム(文明)と村人の問題をこえて、人間の生きていく意味をさえ問うものである。
 このように多くの問題をはらんだ興味深い読み物ではあるが、最後のページを閉じて何か割り切れないものが残るのは、ダイナマイト事件の解決がなされていないことだけではなく、大統領(国民)の側でなく村民(少数者)の側に立って徹底した自然破壊・人間破壊の問題を論じ、進歩によって失うものが何であり、それがどんなに大きいかを力強く訴える面が弱かったからではなかろうか。いや、それよりも何よりもサンシルベストル村の暮らしの様子、カスボーヌ川や谷あいの美しさ、四季の変化といった水没する土地のキメ細かい描写が欲しかった。若者が老人を踏み台にして前進するのは自然の成りゆきであるが、踏み越えていく《老い》がどんなに豊かで美しいものを内包しているかを、もっともっと描出してほしかった。作者の公平さ、客観性といった意図は分かるとしても、やはりアウトサイダーとしての視点の弱さ、あるいは作者の立つ位置の不確かさをいく分感じさせられたのは事実である。(松田司郎
世界児童文学100選(偕成社)
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