3.<住まい>

 今まではウミガラス島の出来事を<休暇>という面から見てきたが、もうひとつの視点<住まい><住まうということ>から見ることにしたい。
 <住まい>は家族を成り立たせる器のようなものであると考えられる。<休暇>は家族から個人をとりだし、成長の機会を与えた。個人が成長するためにはそれはどうしても必要なことである。しかし突然スニッケル荘喪失の危機が訪れた。個人が成長するとき、<住まい>は、古いままでは成長した個人を収容できない。それがスニッケル荘の危機の示す家族という<住まい>の危機である。そういう意味では<休暇>は古い<住まい>に対してはそれを揺るがす危険性をはらむものである。
 しかし危機があったからこそ、スニッケル荘を借りるのではなく所有するという結果がもたらされた。仮住まいでなくほんものの<住まい>になったということは、新しい<住まい>が家族の本質と結びつくものであることを示している。物語はペッレの次のような独白で終わる。「朝焼けのつばさがあれば、海のかなたに住まいをつくる・・・考えてもごらん!いまぼくらにも住まいがあるのだ、ぼくらのものになった住まいがだよ!」このときメルケルソン一家が得た<住まい>は新しく変わった家族メンバーを容れることのできる新しい<住まい>であると考えられる。
 ペッレはここでたいへんおとなっぽい考えを示している。物語の初めにおいてペッレの世界は自己中心的なものであったが、ぼくらという視点をもつにいたっている。チョルベンという人間の友だちとの共同作業を行うことで<住まい>の危機を救ったということが、ペッレに家族の一員としての自覚をもたらしたのであろう。<住まい>の獲得の布石となったコインはペッレを現実へ参加させる一点でもある。そしてまたペッレ自身が確かにこの世に<住まう>ことをなしとげた。
 ペッレの例のように<住まい>を個人のレベルで考えることも可能である。<住まう>ということは世界に定位置を決めて存在するということであり、<住まい>はその定位置である。
 『二年間の休暇』も<住まい>という観点から見ることができる。漂流した少年たちは、行き着いた島で、スクーナーに残るのか、それとも島の中に新しい住処を探すのか、その選択を迫られる。結局彼らは島を探索してかつて漂流者が住んでいた洞穴を見つけ、そこをフレンチ・デンを名付け、住み易いように整える。
 子どもの遊びの中でも<住まい>は重要なテーマである。幼児はタンスを家に見立てて出入りしたり、ままごと遊びをするし、学童期の子どもは秘密の基地をつくって宝物を隠すことを楽しむだろう。農村の子どもの生活を描いた『やかまし村』には<住まい>つくりのモティーフが何度も登場する。リーサが誕生日に自分だけの部屋をもらい、部屋を整える話。男の子たちが木の枝でつくった秘密の小屋や干し草置き場のほらあな、女の子たちが岩の間につくった遊び小屋など、枚挙にいとまがない。
 <住まい>には場所を見つけ外形を形成することと内側を整えることの二つの面があると思われる。<住まい>を心理的・身体的にとらえると、それは人間の姿そのものとほぼ重なる。<住まい>の形成は人が社会の中での位置を定め、いかなる姿で存在するかということを表す。<住まい>の内側を整えるということは、人それ一個がひとつの<住まい>であって、その内的世界を知り、整えることであり、心と身体をつなげることでもある。
 <住まい>の内側を整える仕事はどちらかというと伝統的に女性の仕事とされてきた。『二年間の休暇』では、フレンチ・デンを掃除したり住みごごちよく管理することは相対的に、使用人的性格をもつ黒人少年モコに負担がかかっている。作者ベルヌがなぜ漂流する15人の少年の中に黒人少年モコを配したのかということを考えて見れば、まず考えられるのは<男子の仕事>ならざる家政を担当する人物が必要であったということである。このことは当時の性役割観を反映するとともに、象徴的なレベルで見れば<住まい>の内側を整えることが男性の心の中で抑圧され片隅へ追いやられていたことを示すと思われる。が同時に、抑圧された存在ではあるが、男性の中でまだ耕されていない分野がこの物語の中に提出されたことに意味があるとも言える。少年であるとこの物語では漂流し新しい世界を開拓することがまず注意をひくが、<住まい>の内側の整えというテーマが目立たない形でのぞいていることに大いに意味があるとも言える。
 個人レベルでの<住まい>という観点から見直すと、<休暇>は各自に自分の<住まい>を見つけ整える機会を与えるのだと考えることもできる。

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