今月現在350万枚。これは一年間のプレステソフト総売上の3から4%の間位だろうか。攻略本から周辺アイテムまで入れると5,6百億以上の大イベント。「タイタニック」なぞ目じゃない出来事なのだ。これと勝負できるのは『ポケモン』だけ。しかもFFの場合、前作7、前々作6もそれに近い動きで、風物詩とでもいったノリなのだ。この不景気に。
『DQ』を目標にスタートしたこのシリーズが、製作スピードの遅いそれを尻目に殺して、いつのまにか日本のRPGのトップとなった。
両者のポリシーの違いは最初からあったけれど、それを書いている時間がないので、6作目から顕著になったFFの方向性だけを記せば、ビジュアルへの傾倒、映画的映像への接近である。6作目はスーファミ最後の作品だが、カセットのわずか64MBであるにもかかわらず、CGを多用し、スーファミの限界まで使いきった感があった。と同時に夢の組合せといわれた、マリオを主人公にしたスクウェアと任天堂共同製作『スーパーマリオRPG』において、両者のゲームに関する見解の違い(それが何かは、ニンテンドウ64の『ゼルダ』とプレステの『FF8』が出た現在はっきりしている)が露呈し、いつ決裂してもおかしくない状況もあった。そのため、ニンテンドウ64がCDROMでなく、相変わらずのカセット方式を選択したとき、スクウェアはプレステを選んだ。よりCGを使った、映画的ゲームを製作するために。
現時点でのその頂点が『FF8』ということになる。
結論を先に書こう。『FF8』は殆どの人が最後までプレイする駄作という、世にも珍しい作品である。
孤児であり、人と別れることの辛さを痛いほど知っている主人公スコールは、人とのコミニュケーションが苦手な青年。であるのに、世界を救うために仲間を作って戦うことになる。
という設定は、エヴァを踏襲していて、目新しくはないものの、現在性はある。これに、彼の恋愛が絡む。つまり、世界を救うことと、恋愛とにより、スコールは世界との接点を回復していくというのが、メインラインである。けれど、それらはうまく絡まっているとはとても思えず、恋愛劇は陳腐だし、スコールのクールさは、コミニュケーション力の回復という、友情物語によってどんどん薄れていき、彼自身の魅力が失われてしまう。つまり、クールなままでの恋愛とコミニュケーション力の回復を描くことは可能なはずなのやけれど、そうした工夫は見られず、悪い意味でハリウッド的薄っぺらなドラマが展開している。
舞台は、過去へ未来へ、宇宙へと規模がおおきいのだけれど、それがかえって物語を散漫にしてしまう。
結局のところスコールが何のために戦い、どう人を愛し、友情を育てたのかが納得のいかないまま、ストーリーはラスボス戦に突入してしまうのだ。
華麗なビジュアルに薄っぺらなストーリーといったところか。
このことはゲームのシステムにも言えることで、まずチョイミスのバグがある点。これだけの規模のゲームでは考えられない事態である。デバッグ班は何をしていたのだろう? そのために問い合わせが殺到していたらしいことは、前に書いた通り。
次に、今回は、主人公たちのレベルに合わせたモンスターが出現する方法をとっていて、だからザコと戦うむなしさはないわけだけれど、6人のメンバーの内、三人を選んでプレイするから、もし育てていないメンバーがいた場合、そいつはもう強くなったモンスターとはとても戦えない。又、基本的にはスコールはパーティから外せないので、三人ずつ総入れ替えは出来ず、スコール以外の五人から二人を選択するこことなり、バランスをつけるのは難しい。もちろん、その難しさが面白さになる場合もあるけれど、このゲームの場合、ただうざったいばかりである。しかもスコールと彼にジャンクションしている召還獣だけがやたら強くなり、ほとんど無敵になりかねない。ま、でも決まった三人だけ育てても、最後の戦いは勝てるから、満遍なく育てるのもむなしい。
そして、パーティのレベルと会わせてモンスターも強くなるということは、戦わず逃げまくっていれば、ボスたちもまたレベルが低いままなので、初期レベル(スコールだと、Lv7)のままでのクリアも可能である。つまり、成長というRPGの楽しみの一つは、未熟なままで世界を救うという、屈折した世界観へと変貌してしまう。それを回避するためか、逃げるとスコールの評価が落ち、毎月振りこまれる給料(彼らは傭兵という設定である。だからモンスターを倒してもお金は手に入らない)が少なくなるのだが、このゲーム、武器防具は買うものではなく、また回復アイテムなども、魔法があるので必要がない。つまり、一体なんのためにお金があるか不明なのだ。
また様々なパズルや選択肢が用意されているが、それらはシカトしてもほとんど構わない。がんばって考えてもむなしいだけだ。要するにそれらは程度の低いオマケに過ぎず、単にプレイ時間を長くさせるためとしか思えない。
これらのシステムの問題は、要するに誰にでもクリアできるゲームを目指して(何しろ国内だけで400万ですから)のことなのだが、「誰にでもクリアできるゲーム」作りの方法としては最も安易なものだ。ここも手抜きとしか思えない。
こうした多くの不満と対峙するかのようなCGシーンの美しさはとてつもないと言っていい。どれもが、生身の俳優に演技させる、モーションピクチャーで製作され、ディズニーやルーカスフィルムより出来はいいんではないかと思ってしまう。特に表情の豊さはすごくて、スコールの恋人の口の動きは、おそらく広末涼子のそれをトレースしているだろう。
だから結局そうしたCGを全部見たいがために最後までプレイしてしまうのだ。が、そうして最後までプレイし、ラストのCGを見終わったとき、それらのシーンがただビジュアルとして美しいだけで、何も語ってはくれず、つながりもさしてないことに気づくだろう。
私は、プレステ2の目玉となるだろうFF9も、おそらくやるけれど、この方向にゲームの未来があるのだろうか? ま、これもあっていいんだけど。
さて、『DQ』の新作(はプレステ最後の大イベントとなるだろう)はどうなるのだろうか?
頼むよ堀井さん。1999/04