ごきんじょ冒険隊(前)
冒険とは何か?
例えば「インディ・ジョーンズ」は冒険に見えますが、「ダイ・ハード」や「スピード」はアクションまたはパニックと言えても、冒険とはちょっと違う感じがします。答えは簡単。冒険は自ら求めて行くものだからです。誰も妻の会社がテロリストたちに占拠されることも、バスに爆弾を仕掛けられることも求めてはいません。一方インディはと言えば、未知の物を探索する過程でさまざまな危機に遭遇する。つまり彼は冒険を求めているのです。
そして冒険のもう一つ重要な要素は、最初に旅立った場所への帰還。帰還することによって彼(女)は、旅立つ前と帰還したときの姿の変化、つまり成長を確認してもらえるんやね。もし帰還しなかった場合、彼(女)はただの蒸発者になってしまう。
子どもを主人公にした殆どのRPGが、こうした「冒険」物語となっているのは、子どもにとって最も重要な仕事がこの「成長」やと思われているからです。現実世界での成長はアナログやから、どこがどうどれほど成長したか分からんので、成長を期待されている子どもたちにとって結構プレッシャーがかかる。例えば成績なんてのは点数やからはっきりしているようやけど、学校差がある。そこで偏差値信仰が生まれる。ところがTVゲームというデジタル世界では成長もデジタル、すなわち経験値で表される。ごっつう楽で気分がええ。子どもたちにとってのRPGの魅力の一つはそこやろうね。
デジタルな成長と、悪を滅ぼし世界を救う物語。この非日常の快感。それは疲れる現実日常、つまり「ごきんじょ」での暮らしの中で、シェルターの役目もしてくれているのやね。
が、このソフト、冒険を「ごきんじょ」で、ときたもんだ。はてさて、
ごきんじょ冒険隊(後)
非日常を体験することで成長の証しとする「冒険」と、コテコテの日常世界である「ごきんじょ」は、相いれないはず。が、幼稚園児が主人公と知って納得。というか「冒険」の根っこの根っこをこのタイトルが突いていて感動。
私達にとっての「冒険」が非日常で展開されるのは、私達にとって、日常がもう既知だからなのやけれど、日常のことをうんざりするほど知っていると思っているのは、私達が大人ってやつになっているからです。大人は、本当に知っていようといまいと知っているフリをしないとアカン、悲しい生き物。けど、
ガキである頃、私達にとって、回りの全てが未知であり、非日常世界やった。せやから私達の最初の冒険はごきんじょやったこととなる。ならば、このソフトはプレイヤー(そこには幼稚園児以上の年齢すべてが含まれる)にとって、もはや日常と化したごきんじょを幼稚園児のまなざしを借りて新たに見直すことができるゲームかも。
ところがのっけからこの期待は裏切られます。神様が現れて、主人公のまなちゃんにこの町が悪にねらわれていることを告げ、町を救うよう要請するのやね。
これやったらただのロープレ。プレイヤーの目先を変えたくて、素材を幼稚園児とごきんじょに求めただけ。そうではなく、幼稚園児のまなざしを借りて、ごきんじょがどれほど冒険に値する場所であったかを改めて前景化すること。それを実現できれば、ゲームの新しい可能性を示せたと思うよ。残念!