12/2000

           
         
         
         
         
         
         
     
 九歳のシーオは母親のリーとバンクーバーで暮らしている。二人は貧しく、時には路上で踊ってみせ、物乞いをしなければならない。そんな日々をやり過ごすためにシーオは本の世界にのめりこみ、物語の中の理想の家族にあこがれている。リーに恋人ができ、シーオはビクトリアに住むリーの姉シャロンに預けられることに。シャロンの家に向かう途中のフェリーで彼女は理想の家族を見つける。そして不思議なことに、いつのまにかシーオはその家族、ガルダー家の一員に迎えられていて、彼女の夢は叶うのだが・・・。という始まりを持つキット・ピアソンの『丘の家、夢の家族』(本多英明訳 徳間書店) は、家族幻想が力を失った時代の子どもを描いている。彼女を迎えてくれたガルダー家は夫婦仲良く、その子どもたちも優しく、突然現れたシーオを家族として扱ってくれる。夢のような日々が過ぎ、気付くとまたフェリーの中。本当に夢を見ていたんだと思うけれど、母親が去り、伯母のアパートに住むようになったシーオはなんとガルダー家と知り合う。彼女は彼らをよく知っているが、彼らは彼女を全く知らない。そして(シーオにとっては再び)親しく付き合うようになると、ガルダー家は決して理想の家族ではないのが分かる。子どもを叱りとばす両親、けんかばかりの兄弟姉妹たち。これが同じ家族なのか? と驚くシーオ。同じ人たちなのに全然違う家族像。ネタは明かさないが、そうすることで『丘の』は幻想の家族と現実の家族の落差をシーオの前に突きつけるのやね。そして、恋人と別れて戻ってきた母親のリーは姉のシャロンに、自分は都会のバンクーバーでしか暮らせない、でもシーオはビクトリアになじんでいるからこのまま育てて欲しいと頼み込む。話が違うと怒るシャロン。母親にも伯母にも捨てられたような気分のシーオ。彼女の心の支えになっているセシル(シーオにだけ見える元作家の幽霊)はこう言い放つ。「人生には、公平じゃないことがたくさんあるの」。そして、「あなたの人生はたいへんだけど、それだってたねになるのよ」と、続ける。つまり、将来作家となるため「まわりの人をつき離して物語の登場人物みたいに考えること」と。もちろんここにはシーオが作家になる資質があると励ます前提があるのだけれど、子どもである日々をそうして過ごすという薦めは、今の時代とシンクロしている。理想の家族を幻想として物語の側に置き、なおかつ現実も物語のたねとして捉えること。そのときシーオは眺める自分と眺められる自分を同時に生きることになるのやね。
 オニェフル作・写真の『おばあちゃんにおみやげを・アフリカの数のお話』(さくまゆみこ訳 偕成社)は、なんのけれんもない、ごくごくシンプルな写真絵本やけど、温もりがまっすぐに伝わってくる。副題通り、ページを繰るごとに数が増えていく。イバジ村の少年エメカがまず一人。おばあちゃんの家に遊びに行くところから始まって、独楽回しをしているエメカの友達二人。いちばに物を売り買いに出かけるおばさん三人。だんだん人数だけが増えていくかと思ったら、お次は壁に立てかけられた四本の箒。エメカはおばあちゃんに買ってあげたいと思う。ナルホド、こういう箒をナイジェリアでは使っているんだ。そうして、壺やビーズの飾りや楽器などが数えられ、エメカたちの生活風景も伝わってくる仕掛け。最後は十人の従兄弟で、「家族」という言葉が置かれている。
 シーオとエメカ。どちらもが子どもを生きている。
 児童書への招待状的書物『ほんとうはこんな本が読みたかった』を二月に送り出したメンバーが二冊目となる『だから読まずにいられない』(神宮輝男:監修 原書房)を上梓した。数ヶ月前に翻訳されたばかりの本まで収録されている活きの良さ。ネットも負けそうな、このスピードに脱帽。
週刊読書人2000.12