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 福音館書店がこの春、月刊誌きなポケッ卜」(八五○円)を創刊した。ただし「小学生からの月刊誌」であって、小学生向け月刊誌でないことに注意!中身はおかべりかの皮肉たっぷりなまんがコラム「よい子への道」(でもなんで最初四ぺージだったのに、二号目から二ぺージになっちゃったんだろう)を巻頭にもってきて、おはなしのぺージ、かがくのぺージ、まんがのぺージの読みきりを柱に、多彩な連載でわきをかためるという、なかなかの陣容だ。
まずは創刊三号までを読んでの感想。読みきりで面白かったのは、「ぼのぼの」をほうふつとさせる、いわむらかずおの「かんがえるカエルくん」 (五月号と、小学一年の教室の一日を黒板から定点観測した「水よう日の時間割」(六月号、写真・構成は川島敏生)だ。連載ものでは、一種類の動物の顔を日本各地の動物園にいって撮影した、さとうあきらの「今月の顔」が圧巻だ。四月号のゴリラにレても、五月号のラクダにしても、あるいは六月号のレッサーパンタ゛にしても、みんなじつに表情が豊かだ。まったく見飽きない。それから「追跡−時間を写す」の「ねぞう」 (五月号)も笑えた。
それともうひとつ、この月刊誌で注目しておきたいことは、母親や教師の影がかなり薄い点だ。わずかに母親がクローズアップされているのは、長新太の連載「なりたいなあなりたいなあ」ぐらいで、たとえば四月号では、魚を片手に流氷の上に寝そべるアザラシが、「にんげんのおかあさんになりたいなあとつぶやくと、画面は一転して、どこかのうちのお母さんが、さかなせんべいを片手に、昼寝の最中。時間は午後の一時二十分、テレビはつけっぱなしと、なんだか皮肉たっぷりに扱われてる。こういう母親像がだせてしまう「小学生からの月刊誌」というのは、なかなかいいと思う。
このス夕ンスの取り方、福音館の代名詞ともいえるコ」どものとも」と較べると、その差は歴然としてる。「こどものとも」の記念すへき第一巻、与田準一作・堀文子画『ピップとちようちょう』 (一九五六年刊) を見ると、裏表紙に、周郷博のこんな言葉がのっている。 「父母や教師のみなさんは、まずこのお話にもられている、現代の原始人にふさわしい生きいきした感情の経験にすなおな共感をもってほしい。そうして自分たち自身の感覚や感動の若さをとりかえしてほしい。そうしてこのお話のリズムをすなおに感情の経験としてうけとめて、そのリズムをよくいかすように読んでやり話してやってもらいたい」
この一文で、子どものとも」が父母や教師を介して、子どもに与えられるものだったことはあきらかだ。じゃあ。 「大きなポケット」はどうだろう。創刊にあたっての内容見本に、こんなあいさつの言葉がある。「ポケットに大切にしまっておいた、ビー玉やせみのぬけがら…。あの宝物は一体どこにいってしまったのでしょうか。母親に捨てられてしまったのでしょうか、それとも大人になるときに自分で捨ててしまったのでしょうか。もう手元には残っていません」 
「大人になるとき自分で捨ててしまった」のは一体誰なんだろう、ってのはあるけど、「母親に捨てられてしまった」というのは意味深長だ。子どもとストレートにアクセスしたいという意気込みの現れだと思う。もう「こどものとも」のときみたいに、子どもは父母や教師とセットで捉えられていないのだ。このス夕ンスの取り方に、ぼくはエールを送りたい。
ただ刊行の理由として、「このままでは彼らが子どもの時間をたっぷりと生き、もう一度地球を緑に蘇らせるエネルギーや知恵を、心に蓄えることができないと痛切に感じているからです」というのは、ちょっと大きくですぎたきらいがある。しいていえば、清水真砂子が『子どもの本のまなざし』でさかんに繰り返しているような、「現実を生きのびる処方箋」を子どもにしっかり伝えていける雑誌であってくれたら、とてもうれしい。 (酒寄進一)
読書人1992/06/15