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 1985年に発表され、その年の野間児童文芸賞と小学館文学賞を獲得し、また1989年には宮崎駿の手によってアニメ化され話題をまいた、角野栄子の名作『魔女の宅急便』の続編が、出版された。
 さて、この『魔女の宅急便(2)・キキの新しい魔法』(福音館書店、1500円)を読み通してまず感じるのは、前作で話の中心におかれていた「ひとり立ち」が、作品内部において明らかに質的変化を起こしたということである。それは、モチーフからテーマへの移行とでも呼べるような変化なのだが、つまり、前作において、ホウキに乗って山を飛ぶことしか出来ない現代っ子の魔女キキが、めぐりあう様々な出来事にどのようにして解決していくかという、事件中心の物語を支えるモチーフとして働いていた「ひとり立ち」という縦軸が、今回の作品ではさらにキキの内面的問題として掘り下げられ、彼女の「魔女」としてのアイデンティティーや恋愛感情が、物語の中心的営みとしてテーマ化されたということである。
 この質的な変化を歓迎するか、退けるか。それはもちろん、それぞれの読者の好みによって意見の分かれるところであろう。が、小説の論法からなかなか抜け出ることのできない、現在の児童文学の評価基準の中では「ひとり立ち」を<自立>と読み替え、それをクリアすることを<成長>という言葉に変換することで、この変化を物語の深化として歓迎するのは、おそらく間違いない。
 しかし、僕は敢えてこの変化に異議を唱えたいと思う。前作において、その楽しさ、面白さを創り出したものは、キキの<自立>ではなかったはずだ。それは、明るく前向きで、少しばかりおっちょこちょいなキキの性格がきちんと確保された上で描かれる、人々との交流や、また、彼女の機知に富んだ行動から生まれてくる、いくつものエピソードの積み重ねによって創り出されたのだ。そう、「ひとり立ち」は物語の縦軸として、重要な役割を果たすものの、基本的に背後に押し止められていたからこそ、キキは軽やかに読者の前を飛ぶことができたのである。
 それに引きかえ、今回の作品の「ひとり立ち」は、彼女の飛ぶことを阻害してしまう。「ひとり立ち」をしなければならないのは、もちろんキキが魔女であるからなのだが、この「魔女であること」が彼女を悩ませ、飛ぶ力を落とす結果を招くのは、皮肉としかいいようがない。この困難を克服し、ふたたび魔女としての自分を回復するという中盤以降の展開は、紛れもなく「ひとり立ち」が<自立・成長>というテーマにすり替えられたからに他ならず、地の文の心理描写は確実に増えてゆく(BF「とんぼさん」との関係も、キキの女としての<成長>を描いていると読めなくもない)。
 この両者の、キキの描き方の差異が、もっともよく透けて見えるのは、そのエンディングである。前作では彼女は自分を待つ多くの人との関わりによってコリコの町(ひとり立ちした町)に帰っていったのに対して、今回の作品では、「くしゃみの薬」を作る技を携え、魔女としての具体的な<成長>を果たした上で帰っていくのは、これまで述べてきた質的変化の明らかな証左といえる。
 この質的な変化によって、物語の手触りは変わってしまった。物と一緒に幸福を運び、そして、その幸福をみんなから分けてもらっていた、僕の好きだったキキは姿を消し、代わりに、宅急便をやっている魔女・キキの幸福感だけが物語の大きな結末に語られるだけになったのは、本当に残念なことだ。
 この変化を呼び込んだのは<成長>という幻想から抜け出せない、戦後日本児童文学の一元的な評価のあり方か。あるいは、この物語を少女の成長物語として読み替えてしまった、宮崎アニメの影響か。小説的な児童文学観を軽々と飛び越えた、屈託のないあけっ広げな物語であった「魔女の宅急便」にとって、この変化は退行に思えてならない。(甲木 善久

読書人 1993/07/12
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