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 あしべゆうほのマンガに、子どもが妖怪や昔話の主人公たちのいる魔界をたずねる短編があった。昔懐かしい顔ぶれに喜んでいるうち、子どもたちはそこの住民が絶滅の危機に瀕していることに気づく。それというのも人間が昔話やおとぎ話を忘れかけているから・・・そんな内容だったと思う。むろんこれはあくまで「お話」にすぎない。だが現代空間が異界の住人には住みにくかろう、とは誰しもが感じていること。そして妖精が住みにくいのなら、妖精の登場する物語もまた現代にあまりなじまないことになる。ところが、O.R.メリング『精王の月』(井辻朱美訳、講談社、一四00円)は、この問題をみごとにクリアしている。
 カナダに住むグウェンと、アイルランドに住むフィンダファーは母方の従姉妹どうし。ふたりは妖精との出会いを望み、一六歳の夏休みにアイルランドを旅しはじめた。ところが妖精塚でキャンプしたとき、フィンダファーだけが妖精王にさらわれる。グウェンはいとこを取り戻そうと、旅先で出会った人々の助けを借り、妖精たちを追いかける。しかし呼ばれもせずに妖精界におしかけたグウェンには、妖精の一員となるか永久に人間界の影となってさまようかという選択が課せられる。一方妖精王の花嫁となったフィンダファーにも、大蛇の生け贄という恐ろしい運命がまっていた・・・・
 妖精は我々の道徳には縛られないし、まがまがしさや野生的な荒々しさももっている。メリングは妖精にたいする憧れを満たすような描写をする一方、こうした暗い面も描きだしている。けれども、賞賛すべきはやはり現代に妖精界を成立させたその技であろう。
 メリングはまず近代国家としてのアイルランドと、その裏にほのめかされている秘密の空間というふたつの世界を提示する。自らの意志で妖精と同行することを望んだフィンダファーとちがい、グウェンのほうはふたつめの世界にとどまり、毎日魔法とともに暮らす気にはなれない。常識が、それは無謀だとひきとめてしまうのだ。しかし妖精のまじないでグウェンは身体が人間界、心は妖精界に引き裂かれる羽目になる。だから中世の僧院の廃墟をおとずれると、そこに僧侶が行き来する光景をみる。また現代の建物がうすれ、屋根がかやぶきの家がとってかわる。かと思うとパブですばらしい音楽を演奏するのが妖精たちであることも見てとってしまう。
 グウェンがふたつの世界のはざまで経験することは、見る目さえあれば、妖精界を今でものぞけることの暗示といえる。むろん大部分のアイルランド人は妖精を信じていない、とメリングはいう。求職や政治・農場経営に無関係だからだ。ただ、信じている人もいる。この物語ではグウェンを援助する人たちである。そのひとり農場で暮らすケイティーは、好んできびしい今の暮らしにはいったものの、自分を元気づけるものとして妖精になぐさめを見いだしている。またグウェンのまじないを解くのに力を貸してくれた少年は、何かのチャンスでをえることを現代の聖杯探求になぞらえる。そして生活の舞台をほかに求めるつもりだが、引退してからは心のふるさとに戻るだろうと語る。アイルランドが現実の人間が生活する場であることを認めたうえでの、自分なりの両立のさせ方というわけだ。 物語の後半は大蛇から妖精界とフィンダファーを救う戦いとなり、前後半で分裂気味だが、サスペンスといい、ロマンスの組みこみ方といい、また結末の意外性といい、幾重にも楽しめる−わたしにはしみじみ嬉しかった−ファンタジーである。 ところで最後に先月の続きというのも変だが、いとうひ ろし『ねこと友だち』(徳間書店、一三00円)は、野性味を残したペットである猫をうまく活用した物語として必見!。(西村醇子)
読書人 1995/03/17
           
         
         
         
         
         
         
     


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