98/08


           
         
         
         
         
         
         
         
         
    
 「産業革命によって作り出された新しい雇用は、子どもが搾取から逃れる機会をも生み出した」と主張する書物(『子どもたちと産業革命』C・ナーディネリ著 森本真美訳 平凡社 3200円)は(その発展史観はともかく)、私たちの先入観を揺らしてくれておもしろい。著者によれば、賃労働をすることができた「工場のおかげで、子どもはまだ十代のうちに家を離れることが可能になった」。であるからこそ逆に、多くの子どもたちは自主的に家により長く留まるようになり、彼らが自立しない(つまりは賃金を家に入れてくれる)ために、親は彼らをそれなりに子どもとして遇するようになった。
 ロマン主義の作家たちが、労働する子どもの姿を彼らの子ども観に照らして、過酷であると観て、そう描いていたそのとき、当の子どもたちは、親との力関係において、家の中の子どもであることを自ら選択していたという可能性(イギリスの労働者階級のケースではあるけれど)は、大人が子ども観を変えたのだとするだけより、膨らみがある。もちろん、そうだとしてもやがて子どもは賃金労働の場から退去し、稼ぐのではなく、大人(親)から子どもへの先行投資である教育の場、学校に通うことになるのやけれど。
 そうして近代以降、それぞれが、大人であることと子どもであることの、公式の、暗黙の、了解バランスがあるのだとしたら、現在それが崩れ始めている兆候を誰もが感じているだろう。30年以上子どものそばから発言し続けている斎藤次郎は最新評論集のタイトルを『「子ども」の消滅』(雲母書房 1950円)とした。「『子どもの消滅』というのは、『子ども』という手垢にまみれた概念(それはおとなの思いこみに過ぎない)から子どもを解放し、無力の力と連帯し直すことなんだ」。
 了解バランスの崩れの原因は色々あるけれど、その中でも誰もが指摘するのは情報量。大人が大人の振りをするための、子どもとの情報差は失われてしまっている。そんな中で、「連帯し直す」ために例えば、大人が情報を積極的に開示するという方法がある。すでに子どもが得ている情報であっても、大人が能動的に開示すれば、それは別の側面を子どもに見せるだろう。
 さて、児童書。『セイリの味方スーパームーン』(高橋由為子 偕成社 1000円)は、そのタイトルに引いてしまうかもしれないけれど、生理に関して「数々の失敗や苦労を重ねてきたもんよ」と述べる著者が、初経前の女の子に向けて情報を開示した、ノウハウ本。であるから、もちろん、どんな年齢の女にも男にもおもしろい書物の仕上がっている。「あとで、自分の体を見てごらんなさい。おふろあがりに、鏡の前にすわったり、手鏡をつかうといいですよ」と、自分の性器を観察することを薦めるスーパームーンに、主人公が、「恥ずかしい」と反応すると、「なんで? オトコのコは、いつもさわったり見たりしてるじゃない」と切り返す運び方や、ナプキンは燃えるゴミか燃えないゴミかに関して、「清掃センターに電話してみましよう。いいにくいなら、『赤ちゃんの紙おむつは、燃えるごみですか、燃えないごみですか?』と聞いてみて。一般的には、燃えるごみとして扱われているようですが、ナプキンや包装のビニ―ルぶくろ、夕ンポンのプラスティック・アプリケーターを燃やすと有毒物質が発生するので疑問の残るところです」と、ナプキンと社会を繋げていくアドバイスは、やっと ここまで来たって感じ。
 フィクションでは、ガンで死に瀕した元科学教師が、教え子に自分の世界観から、自分の死体までを開示する『アップルバウム先生にベゴニアの花を』(ポール・ジンデル作 田中美保子訳 岩波書店 1900円)の覚悟が、いい。

読書人1998/08/28