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 先月NHK教育で放映された「十代の言い分・コミニュケーション編」。テーマは、ケータイとピッチを巡るもの。おもしろいと思ったのは、彼らがそれらを、通話のためより、メールに使用している点。通話料の高さも理由だが、ポケベルの次世代機と捉えていることは、彼らのコミニュケーションのさまを示している。彼らは述べる。口で言うのは恥ずかしいこと(恋愛。喧嘩の仲直り)もメールなら出来る。見知らぬメルトモなら、向こうもこっちのこと知らないからバンバン意見を言ってくれるので相談がしやすい。
 この距離の取り方は、個性や自我やプライドや、自分の輪郭を作ることを成長のシルシとして考えたとき、後退と映るだろう。しかし、そうした輪郭が確保確定できない時代(できた時代なんて、本当にあったのだろうか? も含め)の重要アイテムなのだと思う。感動したメールを保存しているコたちもいた。つまり、自分が何に感動したかをファイリングすることで、自分の輪郭としているような塩梅なのだ。
 ミンディ・ウォーショウ・スコルスキィ『友情をこめて、ハンナより』(唐沢則幸訳 くもん出版)は、すべて手紙(メール)で構成された物語。主人公ハンナ・ダイアモンドが祖母やペンフレンド、そして大統領とやりとりした手紙が納められている。舞台は三〇年代後半、フランクリン・ルーズベルト大統領の時代。授業の一環として、見知らぬ学校の生徒とペンフレンドになるのだが、ハンナが引き当てたのは男の子。仕方ないので三枚もの手紙を書くと、返って来たのは、「こんにちは、ハンナ こっちには山はありません。うちには牛が一頭います。PS・本をよむのはきらいだ。手紙をかくのもきらいだ。先生に、むりやりその紙に名前をかかされたんだ。エドワード・ウィンチレイ」というもの。頭に来たハンナはそれをシカトする。一方、引っ越ししていった親友アギーは「手紙なんかくれっこないわ。あんたは私のことなんか忘れてしまう」と嘆いていたのに、ハンナの出す手紙に返事を寄越さない。そんな自分の不幸を誰かに伝えたくてハンナは、最も遠い人物、大統領へ手紙を送る。もう十一通目の手紙にもアギーからは反応がないのに、二度とを欲しくない 相手、エドワードからの手紙。ハンナが返事を寄越さないので、先生がエドワードはハンナに返事を出さなかったに違いないと思っているから、ぜひ手紙を書いてくれ、と。そして、ある日、なんと大統領からの返事が! こうして物語は、待てど来ない手紙、来て欲しくない手紙、来るはずの無かった手紙、そして仲のいい祖母との間で交わされる手紙と、様々なパターンによって、手紙によるコミニュケーションを、描いていく。特に、最初は来て欲しくない手紙であったエドワードとの文通が、相互理解に発展していくさまは、直接生身で遭遇することとは違った手紙の価値をうまく伝えている。
 方、ヴァージニア・ユウワー・ウルフ『レモネードを作ろう』(こだまともこ訳 徳間書店)。十四歳のラヴォーンは、幼い頃父親を亡くして、母親と二人暮らし。大学に行くための資金を貯めようと、ベビーシッターのバイトをすることに。見つけた仕事先は、二人の子どもを抱えている十七歳のジュリーの所。学校にも行かず、字もろくに読めず、仕事も続かないジュリーのことが気になるラヴォーン。反発しあいながらも、決して喧嘩別れすることのない(喧嘩はしょっちゅうするけれど)、二人の結びつき。こっちは距離を詰める生身のコミニュケーションやね。
 電子メール、手紙、生身、どれがいい悪いではなく(どれも時に傷つけるし、ときに嘘を付く)、どれもが巧く使いこなせればいいってことなんやろうけれど、とりあえずこの国では電子メールが独自のコミニュケーションツールとして、子どもたちにどう使われていくのか、注目したい。
読書人1999.06