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 ミック・マニング&ブリタ・グランストローム『がぶり もぐもぐ』(藤田千枝訳 岩波書店)は、食物連鎖がテーマ。絵は凡庸。ひょっとしたら、絵が面白すぎては「科学」が伝わらないと思っているからかもしれない。最初の見開き。あるばん、土の中から一本の芽が出て、「ちいさな め たべたいのはだれかな」と書かれている。次のページを開くとイモムシがそれを食べている。が、そこには前のページのように「イモムシ たべたいのはだれかな」とある。こうして次から次へと「食べている」生き物の絵と、それを「食べたい」者を募る文字というテクストが提示されることとなる。イモムシもキツネも次のページで誰かに食べられることでしか物語を進めることができないのだ。彼らが生き残る術はただ一つ。物語を進めないこと。もちろんこれが物語ではなく科学絵本だからといってしまえばいいのだが、連鎖に人間は組み込まれておらず、登場してもそこに、「にんげん たべたいのはだれかな」が附されていない点で、それはヒエラルキーになってしまっている(つまりは幕が降ろされる)限りにおいて、これは物語的ではあるのやね。
 一方、二宮由紀子『ハリネズミのプルプル』(あべ弘士・絵/文渓堂)三部作が、物語を進めるにあたって採用するのは、「忘れる」である。二宮のハリネズミたちは、なんでもかんでも忘れてしまう。第一巻『森のサクランボつみ大会』。プルプルの家に友達のフルフルがやってきて、約束していたサクランボつみ大会に誘う。が、プルプルはそのことを忘れてしまっている。フルフルは重要なことは手の甲に書いておくので覚えていたのだ。彼は以前、自分の誕生日、家族や友達がパーティーを開いてくれたのだが、それを忘れてしまって遊びに行き、集まってきた連中も何のパーティか忘れたのでフルフル抜きでパーティを終え、戻ってきた彼は食べ残されたバースディケーキを見てやっと思い出した経験があるからだ。フルフルの指摘でサクランボつみ大会を思い出したプルプルだが、出かける前にシャワーを浴びたいからとフルフルを待たせている間にまた忘れてしまう。
 出来事があり、その出来事に関連付けて、次/別の出来事が生じ、またその出来事に、といった不可逆的な連なりを物語と呼ぶとすれば、この場合は、出来事は関連付けられたとたん忘却されてしまう(シリーズはそこに「ユーモア」を生成させており、見事に成功している)。それを物語としてかろうじて進めるのはフルフルの手の甲のメモ、つまり出来事とは無縁のバックアップなのだ(これとて、フルフルが手を拭いてしまうことで最後には消えてしまう)。最終巻ンモクセイをさがしに』ではバックアップすらが忘れ去られる。キンモクセイについての授業。忘れないように先生は運んできたキンモクセイの鉢に名前のプレートをつけている。キンモクセイを初めて見た生徒たちに感想を求める先生、答えるプルプルたち。しかし話題は以前習ったタンポポ(習ったことは忘れている)に移り、何の授業か忘れてしまった先生は、持ち込んだ鉢につけてあるプレートを見てキンモクセイの授業をするのだと思い出す。ただし、さっきすでにもう教えていたことは忘れている。初めて見たキンモクセイの感想を求める先生、答える生徒。けれど、生徒たちにはどこかで見たよ うな記憶がある(さっき、見たのは忘れている)から騒ぎだす。そんなことはないはずと、先生は彼らを連れて学校の外にキンモクセイを探しに行く。
 ここでは出来事を「忘れる」ことが、物語進展の要素として前面にせり出してきている。一見ナンセンス物のようだが、違うだろう。意味の過剰もズレも脱臼も転倒もない。あるのはただ、「忘れる」。すごい。