1999/回顧


           
         
         
         
         
         
         
         
         
    
 今年は、どれくらい児童書をご紹介できたかと数えてみたら、12回で24冊。これでは「児童文学時評」の看板に偽りありと言われてしまいそうなのだが、児童書が読まれる、この今の「場」から始めるとどうしても他のメディアに触れてしまい、その分児童書に関して書くスペースが少なくなる。すんません。その代わりといってはなんですが、「児童文学評論」というメールマガジンにても随時紹介しています。ご購読いただければ幸いです。
 さて、年末回顧。
 本年は、「切断」や「輪郭」などの言葉を使った。それは、「親/子」や「大人/子ども」の境界線引きが通用しなくなってきていることを意識してのものだ。もし通用するならば「子ども」は、親や大人が輪郭を描くのを受け入れるにしろ反発するにしろ、それを観ることができるのだが、年々そうした境界線はあいまいになっている。親や大人の側から眺めれば、「近頃の子どもはわからない」わけで、もちろん親や大人の価値観と子どものそれとが違うという意味に於いては、これはいつの時代にもお馴染みのフレーズなのだが、現在進行しているのは、それだけではなく、子どもにとっても、子どもであることがはっきり見えてこない事態なのだ。従って彼らは(もしそれが必要ならば)子どもという輪郭を自ら描くか、親や大人との切断面を取りあえずの輪郭とすることとなる。宇多田ヒカルの作品群が突出した支持を集めた一因は、一人の十五才の女の子の輪郭を自ら十五才の宇多田が明確に描いてみせた所にあるだろう。採り上げた児童書の中では『 キッド・ナップ・ツアー』『ハンナのひみつの庭』『家族さがしの夏』『レモネードを作ろう』『でりばりぃAge』『星兎』『マリーを守りながら』『ひねり屋』『穴』などにそうした風景は見えてきている。
 これは何も「子ども」を巡ってだけ起きているわけではなく、例えばファンタジーとよばれるジャンルにもその兆しはあり、『童話物語』が決定稿の断片として出版されたこと、『ハリー・ポッターと賢者の石』『黄金の羅針盤』が架空性を保持するよりむしろ日常との境界があいまいなまま描かれていることなどが興味深い。マジック・リアリズムの人気も当然こことリンクする。蛇足ながら、もちろんこれは、エブリデイ・マジックの復活ではない。
 最後に、未紹介の中から、印象に残った作品たちを。ヘレナ・ダールベックうこそわたしのへやへ』(シャルロット・ラメル・絵 木坂涼・訳 フレーベル館)は読者が絵本の中の「わたし」となって読者の「私」に部屋の中を見せていく趣向に軽い目眩を覚えた。イリーナ・コルシュノフ『彼の名はヤン』(上田真而子・訳 徳間書店)はナチス・ドイツ時代、ヒットラー女子ユーゲントにいたにもかかわらず、ポーランド人のヤンを愛してしまったレギーネの物語。戦時下の十代をちゃんと描いていて印象的。コリーン・キャロル『子どものための美術入門 1 名画のなかの動物』(斉藤律子・訳 くもん出版)は、物の見方の自由度を磨いてくれる一品。リ・ドンソプ他『日本がでてくる韓国童話集』(仲村修とオリニ翻訳会編訳 素人社)はタイトル通りの短編集。日本がどう描かれているかを知るだけでも意味がある。内田麟太郎『ともだち くるかな』(隆矢なな・絵 偕成社)は、オオカミを主人公に、「さびしさ」の意味を真っ直ぐ伝えてくれる絵本。MAYA MAXXの絵本『トンちゃんってそうゆうネコ』(角川書店)は三本足であることが猫のトンちゃんにとってどう不利かを淡々と描きつつも、ただただそうであることの生命の力がストレートに伝わる。フース・コイヤー『ひみつの小屋のマデリーフ』(野坂悦子・訳 国土社)は亡くなったおばあちゃんの人生を孫娘が探索する物語。女であることと母親であることを両立し難かった時代を描く。ティム・ウィン=ジョーンズ『ぼくも変身できるかもしれない』(山田順子・訳 岩波書店)はどんなにさりげない子どもの日々にも彼らは彼らなりの問題を抱えていることをユーモアのある視線によって、描いている。
 現実と虚構の枠組みがあいまいになり、情報の増加につれてデス・コミュニケーションが蔓延する時代に、児童書も無縁であるはずはない。来年、物語たちはどんな顔を見せてくれるのやろう?
読書人1999/12