家族って、なんなんだろう。

金原瑞人

           
         
         
         
         
         
         
    
 今年は国際家族年・・・・・・らしい。それで昨年末、毎日新聞の正月版に家族を扱った子どもの本のリストをと頼まれて、ここ数年のあいだに出た作品で印象に残ったものを拾い上げてみたのだが、その作業をしているうちに、面白いことに気がついた。とりあえず、そのリストをあげてみよう(低学年向けと番外編は省略)。
 『まま父ロック』(山中恒)『ハンサム・ガール』(佐藤多佳子)『パパは専業主夫』(キルステン・ボイエ)『パパあべこべぼく』(メアリー・ロジャース)『野菊とバイエル』(干刈あがた)『お引越し』(ひこ・田中)『ぎょろ目のジェラルド』(アン・ファイン)『もう一つの家族』(キャサリン・パターソン)『シェフィールドを発つ日』(バーリー・ドハ―ティ)『四万十川』(笹山久三)『ダイシーズ・ソング』(シンシア・ヴォイト)『ウィスコンシン物語』(アン・ペロウスキー)『ヒルクレストの娘たち』(ルース・ハリス)『ふたりの世界』(ジョアン・リンガード)。
 まず気づいたのは、とにかくいろんな家族があるということ。新しいお父さんがやってきた家族、お母さんが単身赴任している家族、お父さんが主婦をすることになった家族、お父さんをベトナム戦争でなくした家族、お母さんの新しい恋人にほんろうされる家族、両親に捨てられた子どもたちとお祖母さんがいっしょに暮らしている家族・・・・・・まさに様々!
 もちろん、昔から色々な家族の形があったことはたしかだ。しかし現代ほど、多様な家族が小説に取り上げられたためしはない。現代って、なんなんだ。いや、そもそも家族って、いったいなんなんだろう?ずいぶん考えさせられてしまった。
 それともうひとつ気づいたのは、圧倒的に女性の作品が多いこと。子どもの本を書く人に女性が多いのはいうまでもないが、この家庭を扱った子どもの本のリストの女性の占める割合は少し高すぎると思う。ひるがえって考えてみれば、これは男性の作家に、正面きって「家庭」を描こうとする人が少ないということなのかもしれない。さらにいえば、「家庭」に対する男性の意識はかなり低いのかもしれない。
 ぼくは社会学部で英語を教えているのだが、同僚に平塚さんという教育学担当の女性がいる。こないだ平塚さんから興味深いことを聞いた。いくつかの大学で学生に、「十年後の自分の生活・自分の家族」について自由に書かせたところ、男子の家族像は非常に貧困だったというのだ。男子の多くは「そんなことはあまり考えたことがなかったので・・・・・・」というふうにはじめていて、内容もせいぜい、自分が結婚しているかどうかというくらいのもの。それにひきかえ、女子のほうは、結婚はもちろん、相手の家族といっしょに暮らしているかどうか、子どもはいるのかいないのか、いるとすると何人くらいか、自分は働いているかどうか、といったかなり細かいところまで書いた学生が多かったという。
 だから男性の意識を改革しなくてはいけないのだ・・・・・・などという議論をここでするつもりはない。とりあえず、ひとつの事実として紹介しておきたい。そしてついでに指摘しておきたいのは、子どもの本、あるいは児童文学というジャンルは、家族という問題にとても敏感だし、子どもの本には家族を扱ったすぐれた作品が多いということだ。
 と、国際家族年ということで、ずいぶん前置きが長くなってしまったが、今回の書評でも『メイおばちゃんの庭』『ミッドナイト・ブルー』『私の部屋』『ミラクル』なんかは家族をテーマにしたいい作品だと思う。先に述べたように、女性作家の作品に家族を扱った佳作が多いのだが、男性だって頑張っていることも、ひとことつけ加えておきたい。その証拠にこの四作のうち二作は男性の作家によるもの。
 今回ここに取り上げたのは昨年の十月から十二月までに出た本の中で印象に残ったもの・・・・・・さて、いってみよう。
 まず最初に紹介したいのがシンシア・ライラントの『メイおばちゃんの庭』(斎藤倫子訳、あかね書房)。これは九二年のニューベリー賞受賞作。両親をなくして、親戚をたらい回しにされていたところを、メイおばちゃんとオブおじちゃんの家に引き取られた女の子サマーが主人公。物語はメイおばちゃんが死んだところから始まる。がっくり力をおとしているオブおじさんをみながら、なんとかしてあげたいと思うけど、なにもできなくて落ち込んでしまうサマー。ところがある日のこと、オブおじちゃんが「メイがいる」といいだした。悲しさのあまり、頭がおかしくなったのかと、サマーは心配になるが、そこにクリータスというちょっと変な男の子が現れて、「幽霊って、ほんとうにいると思います」なんてことをいいだした。あげくのはてに、三人はメイおばちゃんに会うための旅にでかけることになるが・・・・・・。
 大きな事件が起こるわけでもなく、ストーリーそのものが起伏にとんでいるわけでもない。しかし淡々とした口調で語られるこの物語には、様々な思いと気持ちがていねいに刻みこまれている。親戚をたらい回しにされて、傷つき、おずおずと小さくなっていたサマーにはじめて出会ったときのメイとオブの気持ち。「メイがいる」といいだしたオブを目の前にしたサマーの複雑な気持ち。最初は全く相手にしてなかったクリータスというという男の子に次第に心を開いているサマーの気持ち・・・・・・。
 快い初夏の小糠雨のなかを散歩しているような気持ちにさせられる。すがすがしく、少し切ない魅力的な作品といったところ。
 それからポール・フライシュマンの『私の生まれた部屋』(谷口由美子訳、偕成社)もよかった。これは三月号でも紹介されているので簡単にすませるが、南北戦争を背景に、オハイオ州の小さな村で一生を過ごしたおばあさんが語る、誕生年と成長の物語は、どれも味わい深い。とくに、自然を神として生きてきたおじいさんが死の床にあってもなお、牧師の説教を頑として受け入れず、地獄の恐ろしさを説く牧師の言葉に、無言でテーブルの上に飾ってあるスミレを指さす場面は印象的だ。
 『半月館のひみつ』(偕成社)を読んだ方はもうご存知だろうが、ポール・フライシュマンもまたJoyful Noiseで八九年のニューベリー賞を受賞している新しい作家のひとり(ついでにいうと、父親のシド・フライシュマンも『身がわり王子と大どろぼう』で八七年のニューベリー賞を受賞している)。
 じつは、アメリカではこの数年来、子どもの本が一種のブームで、ずいぶん多く出版されるようになってきた。シンシア・ライラントやポール・フライシュマンといった比較的若い作家の活躍も、そういった背景を反映しているのかもしれない。とにかくアメリカの子どもの本は、これからもさらに期待できそうだ。
 しかし中堅作家の活躍も見逃せない。『はてしない追跡』(くもん出版)についでゲイリー・ポールセンの『さまざまな出発』(渡辺南都子訳、くもん出版)が出た。
 『さまざまな出発』は四人の若者の出発(たびだち)の物語と、戦争で未来を閉ざされてしまう三人の若者の物語から成っている連作だ。銀行につとめはじめたオブジワ族インディアンの娘、メキシコからアメリカに不法入国して農場で働くことになる青年、羊牧場で成長する娘、新しい音を追求するロッカー。そして戦場に旅立つ若者たち。
 なかでも朝鮮戦争で、砲撃の指示をする朝鮮の子どもを次々に射殺しなくてはならなくなる青年のエピソードは胸をえぐるような悲愴感に満ちた一編。
 大向こうをうならせるような一発は出ていないものの、ポールセンの鋭い問題意識と、それを物語としてたくみに展開させて読者を引きこむ筆力は、下手なミステリー作家などとてもかなわないすごさがある。こういう作家がコンスタントに作品を発表しているところにアメリカの児童文学の層の厚さをつくづく感じてしまう。
 さて、次はイギリスの新人ポーリン・フィスクの『ミッドナイト・ブルー』(原田勝訳、ほるぷ出版)。これは出版当時イギリスで評判になり、子どもの本として出されたものの、大人にまで読まれるようになった作品で、ぼくも原書で読んで、その筆力のすごさに、「これが新人の作品なんだろうか!」と舌を巻いたのをよく覚えている(が、期待の二作目は少し食いたりなくて残念)。
 「熱くなった気球の表面が黒から・・・・・・真夜中の空の青、ミッドナイトブルーに変わった。気球はまっすぐに上昇していく。やがて、空の一番の高みに突き当たりそうになり・・・・・・と、その時、なめらかだった空にひだがより、青い布となって、まるでカーテンでも開けるように二つに分かれた」
 気球に乗って別の世界にいったポニーは、そこに自分の家族そっくりの人たちがいて、自分そっくりのアラペラという名の少女までいることを知る。しかしアラベラは自分と違って、やさしい家族に囲まれとても幸せそうだ。いったい、この世界は何なんだろう?そして自分のを気球に乗せてこの世界に連れてきた謎の少年、シャドーボーイとは何者なんだろう?
 大胆な発想としっかりした構成が、この不思議な世界でいつくかの事件に巻きこまれながら自分を発見していくポニーの成長を見事に浮き上がらせている。
 さて、次は日本。昨年の話題はなんといっても山田かまちだろう。六月に出た『十七歳のポケット』(集英社)と、十二月に出た『山田かまちのノート・上下』(ちくま文庫)、どちらも七七年に十七歳の若さでこの世を去った山田かまちの作品集だ。

     心の生きがい
  高原に立っていないのに、
  高原に立っている時がある。
  わたしはその時を大切にする。
  その時こそ本当の時間。
  心の生きがい。
  神はいない。
  人が神と呼ぶものは、
  その心なんだ。
  心を大切にしよう。
  心をふみにじっては、
  人生は偽りでしかない。
  心は人だ。それは優しい。

 ずいぶん若い詩だと思う。山田かまちがもし若くして死ぬことなく、ロッカーになったとして、この頃の詩を発表しただろうか。おそらくしなかったと思う。詩というにはあまりにも稚拙だから。しかし、「心は人だ。それは優しい。」といいきるこのいさぎよさには思わず胸をつかれてしまう。
 「愛。/人間はないもののために生きるのか!/目的は・・・・・・目的は架空で、架空を求めて生きるのか!/架空を求め生きるなら、/生きるとはいったい何なんだ!/死ねないやつの意地か。」(「愛のない生活」より)という問いかけもそうだ。
 「山田かまちの詩文を読むと、胸がちりちりする。自分もかつて生きていた十代の後半が、いやおうなく思い出されて」という俵万智の言葉は、この作品の魅力を見事にいいあてている。
 だが、山田かまちの最良の読者は十代後半の若者たちだろう。中高生によく読まれているというのも、十分に納得できる。
 それとは対照的に、ずいぶんスマートで切れのいい作品が出た。辻仁成の『ミラクル』(望月通陽絵、講談社)がそれ。主人公はアルという少年。ママはなくなっているのだが、パパはアルにそれを隠している。パパはアル中のジャズ・ピアニストで、アルには「ママは雪の降る日に帰ってくるよ」と教えて、寒くなると雪の降りそうにないところにいくことにしている。アルは成長するにしたがって、ママはどんなものという疑問で頭がいっぱいになっていき、ついにママさがしが始まる。手がかりは、ママっていうのは「許してくれる人だな」という幽霊の言葉。
 アルの必死のママさがし、それをやさしくみまもるダダとエラソーニというふたりの幽霊・・・・・・そしてついに、クリスマスに雪が降った。
 大人向けに書かれた童話という体裁をとっているが、とくにヤングアダルト向けに勧めたい一冊だ。
 また萩原規子の『これは王国のかぎ』(理論社)も見逃せない一冊。『空色勾玉』『白鳥異伝』で日本の神話をベースにユニークなファンタジーを書いてきた作者のアラビア版ファンタジー。主人公は失恋して落ちこんでいる十五歳の上田ひろみ。そのひろみが、気がついたら砂漠に浮かぶ生首になっていた・・・・・・という出だしもすごいが、魔神族(ジン)となって王子とともに経験する冒険の楽しさ、その冒険を女子中学生のノリで乗り切っていくひろみの活躍の爽快さ・・・・・・などと、この手の物語には目のないぼくのこと、ほめだしたらきりがない。読みなさい!とだけいっておこう。
 そのほかに、『男子高校生のための文章図鑑』(筑摩書房)も紹介しておきたい。これは、ご存知、『高校生のための文章読本』『高校生のための批評入門』『高校生のための小説案内』という、高校生のみならず読書好きの必携三部作の続き。中島らも、橋本治、ロラン・バルト、色川武大、アゴタ・クリストフ、中上健次らの文章から、望月峯太郎、山田花子のマンガまで、いつもながら目配りと心配りの行き届いた見事なアンソロジー。拍手、拍手。
 またノンフィクションでは、佐江衆一の『田中正造』(岩波ジュニア新書)が印象に残った。田中正造は足尾鉱毒事件で被害農民の先頭に立って活躍した指導者で、今さらなんの説明もいらないだろう。これは中高生向けに書きおろされたもので、細かい事実関係や微妙な解釈などには触れていないが、そのぶんくっきりと作者のとらえた田中像が浮かび上がってくるし、人間としての田中と、先進的な指導者としての田中がうまく重なっている。ヤングアダルトだけに読ませるのはもったいない。大人にも勧めたい一冊。きっと田中正造の伝記、、評伝の決定版になると思う。
 さて、番外編として、年末年始のスーパーファミコンは『トルネコの冒険』と『ファイアーエンブレム・紋章の謎』が抜群に面白かった。お勧めです!(日本児童文学 1994.04)

テキストファイル化鍋田真里