翻訳時評
1979/08

「鳴き声と遊んだり、機械のこわさを考えさせられたり」
三宅興子

           
         
         
         
         
         
         
         
     
 貧弱な苺の苗を1本、庭の思いつきの場所に植えたまま忘れていたら、次の年、雑草の中で実をつけていた。それから毎年毎年繁殖し続け、五月になると確実に実をつける。そして、これも確実に食べごろを知っている虫たちがやってくる。少し青いと思って油断していると、あっという間においしそうなところを食べられてしまう。こちらは何も世話していないので、おこぼれを少しいただく。
 文部省統計数理研究所が、イソップ物語の「セミとアリのお話」の結末について、1300人の人を対象に調査したという(『朝日新聞』'79.6.7)。「セミさんは怠けていたのだから困るのは当たり前、と追い返す」という人が18パーセントで、「怠けていたのはいけないといさめたうえで、食物を分けてあげる」という食物恵み派が72パーセントを占めた。この数字は、日本人の“甘さ”“やさしさ”の一面を表していて、童話の結末を改作することに対する批判が強いにもかかわらず、改まらないのは、意外に根深いようだという解説をつけている。新しい訳で出された『ラ・フォンティーヌ寓話1・2』(川田靖子 訳 馬場檮男 版画 玉川大学出版部)を拾い読みしながら改めて、“この年になって、こたえるような話”が多いと思う。読み手の不安をかきたてて、教えるしかけになっている。そして、調査に答えた多くの人が、“自分はアリである”と思っているらしいことに気が付く。セミであれば、説教されて食物を分けてもらうよりは、断られすごすご引き下がるのは当然だと納得するであろうから。どうもセミ人間であるらしい自分の後ろ姿がだぶって見えてくる。そ うか、おめおめと、苺のいちばんおいしいところを虫たちに食べられていてはいけないのか、書を捨て庭にでもでてみることにしよう。

1 動物の鳴き声 オン・パレード

 ピーター・スピア作『ごろろ ううう ぶうぶう』(わたなべしげお/増井光子訳 冨山房)は、さまざまな動物の絵に、その名前と鳴き声だけを書きつけているおもしろい絵本である。動物の多様さに劣らず、鳴き声も多様であるし、静的な図鑑ではないので、ところどころに遊びの要素と細部の発見を用意してある。ちいさなあおさぎが「あのねこうなのよ、あのねこうなのよ」といっていたりする。見開き2ページを使って1本の木で70羽(どうしても数えたくなってしまう)のむくどりが、いっせいに「ひゅーゆぅ、すいいっ、ちいいいういいい」と鳴いているのは壮観である。いろいろと楽しめる絵本である。

2 “岩波ようねんぶんこ”が十冊に

“岩波ようねんぶんこ”が10冊になった。そのどれもがそれぞれに読みごたえがあり、幼年童話に対する飢えが少しずつ癒されてくる思いがする。そして評価の定まったものばかりという手がたい選書の中に、少しは“毒”っけのまじったものも、今後入ってくることを期待したい。
 J・マクネイル作『はじめてのおてつだい』(松野正子訳 岩波ようねんぶんこ6)は、おばあさんと女の子が登場する話が2篇入っている。「その1 メアリーとかさと木よう日」では、毎木曜日、メアリーは母親の勤務の都合でエミリー大おばさんのうちですごすことになっていて、ある木曜日大おばさんがひどい風邪にかかり、一人でバスにのって買物に出かけることになる。かさについたあひるの頭の助けもあって無事に買物をすませることができる。10日ばかりたってメアリーは誕生日に大おばさんからあこがれの時計をプレゼントされる。「その2 ちいさいおてつだいさん」は、マッジという女の子が隣の老夫婦のお手伝いをしたいと申し出て、じゃがいもの皮をむくと指を切り、お茶をいれるとカップをわりと大失敗してしまうもののハンブルおばあさんは、暖かくじっと見守っていてくれて、来週もおいでといってくれる。どちらも、一生懸命買物したり、手伝いをする女の子と、おばあさんの心のふれあいを描いている。時計、傘、ほう丁、お茶のカップとどこにでもありそうなありふれた材料を使いながら、人物や場面を生き生きと浮かび上がらせる技術はなかな かのものである。
 P・ファーマー作『ぼくのカモメ』(八木田宣子訳 岩波ようねんぶんこ8)は、おばあちゃんと男の子が登場、オウムをペットにしたいと思っているスティーブが田舎のおばあちゃんのところで、1羽の傷ついたカモメを発見し、ペットにしようとするが、うまくいかず大空に戻すまでの心理のゆれを描いている。これも、都会と田舎の違い、孤独の男の子のペットへのあこがれ、とありふれたテーマでありながら、描写の確かさが光っており、技術でよませてしまう。
 キャサリン・ストー作『はらぺこオオカミがんばる』(掛川恭子訳 岩波ようねんぶんこ7)は、『ポリーとはらぺこオオカミ』(シリーズの3)の続篇で、オオカミを手玉にとる妹ルーシーも加わって、強いはずのオオカミを、みじめでこっけいなものにかえ、いじめぬいて楽しんでいる。読者である子どもをスカッとした気分にさせるであろう。
 ドナルド・ビセット作『あとでまたものがたり』(木島始訳 岩波ようねんぶんこ9)も、『こんどまたものがたり』(シリーズの5)の続篇である。短篇が11入っており、ナンセンスなおかしさでは、群を抜いている。小気味のいい語り口と、発想のユニークさ、なかなかのものである。「むかしむかし、なかよしのトラとウマがいました。そのトラとウマは、客間のじゅうたんの下に、すんでいました。」(24頁)どうなることかと身を乗り出してしまう。思いつきのおもしろさ以上に深読みできるものは少ないけれど、1つまた1つと、一度に読んでしまうのはもったいない気がして、ぽつりぽつりと読んだ。
 J・R・タウンゼンド作『ぼくのあそびば』(神宮輝夫訳 岩波ようねんぶんこ10)は、シリーズの中でただ一冊、“現代”を背景にして成立している作品である。人畜無害、衛生処理された子どもの本に対する批判から、その文学活動を出発させているタウンゼンドの唯一の幼年童話といえるものだけに、期待をもってとりかかったものの、それは充分に満たされることはなかった。
 保険会社のビルの21階に「世界のいただき」という役員の宿泊室がある。普段は使っていないので、管理人一家はそこを「天国」とよび、洗濯ものをほしたり、遊び場にしたりしている。両親の留守になったある日、十歳のキャシィは、七歳の弟ドナルドの世話をまかされる。ドナルドはいつの間にか、子どもだけで「天国」に行くことは禁じられているのに、いってしまい、そこへ会社の会長がふいにやってくる。屋上の池のそばですっぱだかで遊んでいるドナルドは、キャシィから逃げ出し、調子づいて「ばかはしゃぎ」の気分になって、高いところに上がってしまう。子どもにつめたいポーターがやってきて、「おりろ!」とどなったことで事態がより悪くなり、広告塔の下のせまい渡り板の上ににげたまま動けなくなってしまう。責任を感じたキャシィは助けにいく。弟の肩をだきながら、目まいがしてキャシィも動けなくなる。そこへ足の悪いパパがかけつけて、助けてくれる。会長は、幹部用駐車場を遊び場にかえるといってくれ、めでたしめでたし。
 一人一人の人物づくりのうまさ、それは、タウンゼンドのどの作品でもいえることであるが、ここでもほんの少し登場する人まで目に見えるように描かれていて、素晴らしい。また、作品の背景をなしている、ビル管理人として細々と暮らしている一家の問題―父親が北アイルランドの戦いで負傷し身体障害者であること、そのために、子どもが住むところではないところに閉じこめられているという状況設定も納得して読める。また、高いところ高いところへと自分を追いつめていく子どもの心理と、目まいの感じも、よく出ている。しかし、会長の鶴の一声で、駐車場が遊び場にかわるという結末のつけ方は、どうだろうか。作品全体がかなり誇張された語り口をもっているので、そこを楽しめばよい作品ではあるのだろうが、自らのエネルギーで生きのびていく子ども像を創造していたタウンゼンドにあって、この作品は、少々人畜無害の方向に逆行しているようである。

  3 食べることと、ケンカすること

 ノーマン・リンゼイ作・絵『まほうのプディング』(小野章訳 講談社)は、オーストラリアで唯一冊古典(初版は1918年)となっているファンタジーである。
 魔法のプディングのアルバートは、コックのカレーライスのつくり出した不思議なプディングで、味はお好みしだい、いくら食べてもまたもとに戻り、食べかたが少ないと文句たらたらになる。
 コアラでおりにふれ、歌をつくるバニップは旅に出て、船のりビルとペンギンのサムに出会い、ビルのまほうのプディングを馳走になる。三人とプディングはともに旅をしていくが、そこにプディングどろぼうのふくろねずみとふくろぐまがあらわれて、三人組はしてやられたり、またとりかえしたり、知恵くらべの争奪戦を演じていく。ナンセンスなドタバタのなかに、それぞれの登場動物たちの歌が入ってにぎやかである。クライマックスは法廷、なぐる、けるの大騒ぎ。「こんな大さわぎをしていては、さいばんがかたづかないじゃないか。」「かたづかなければ、ちらかしたまんまに、しておけばいいよ。」というわけで、逃げ出してしまい、「だんだん、この本もおわりに近づいてきた。大いそぎでなんとかしないと、本がしりきれとんぼになるぞ。」というビルにパニップは答える。「ぼくたちの旅をおわりにしたら、この物語もおわりになります。旅をやめれば、きょろきょろプディングをさがしている、どろぼうたちにしたって、お手あげですからね。」(224頁)そして菜園経営者のペンジメンのところの木の上に家を建て、たのしいくらしをする。
 全くおかしな話で、あほらしい!理想の食べものをめぐってあくなき戦いをするというテーマは、永遠に新しいであろうし、また、毎日、子どもがぶつかっているテーマでもある。オーストラリア特有の動物たちを縦横に活躍させ、かなり下品な言葉でわめく場面をサービスし、歌によってもりあげていくリンゼイの筆力は、表情ある絵の魅力とともに、60年を経過した今も、多数の子どもをひきつけるであろう。

 4 ピーター・カーターをご存じですか

 『果てしなき戦い』が翻訳されて後、自作を待ち望んでいたピーター・カーターの歴史小説『黒いランプ』(犬飼和雄訳 ぬぶん児童図書出版)がやっと出た。読みはじめると、最後まで引き入れられて呼んだ。歴史上の一つの時代が確固とした姿で再現されている。本格歴史小説、それも、新しい史観にもとづいた歴史小説が、ここにくっきりと成立している。サトクリフの力強さ、ガーフィールドの背景の正確さ、カーターの史観と並べ取り組んでいくカーターに、新人とは思えないスケールの大きさを感じて舌をまいている。役者あとがきによると、13歳から大工見習いをし、29歳になってから大学に入学したという経歴が目についた。
 『黒いランプ』は、1803年生まれのダニエルの目を通して、1819年8月16日、産業革命をバックとして手をくんだ手織工が選挙権獲得のデモに立ちあがり「ピータールー虐殺事件」に至るまでの小さい村の人々の動きと、その後の時代を描いている。そしてアークライト、クロンプトン、上記エンジン、産業革命と言葉だけ知っている、いや何も知らない者にでもその時代そのものが、どんな歴史書よりもくっきりと見えてくる。
 ダニエルの父ジョージは、家で仕事をしている腕のいい手織工であったが、かつて、機械に職をうばわれている追いつめられた織工たちと「黒いランプ」という秘密組織に入って、機械打ちこわし運動に加わった前歴をもっている。機械をこわすことで時代の流れをかえることのできないことがわかり、静かに暮らしている。時がたってひとりひとりのひとたちと話し合いハムデン・クラブをつくる。父は、村の卑劣な工場主クランリーの正体を見抜いている。かつて、政府の犬としてウソの証言をデッチ上げて、仲間を有罪にしたのだ。「わしはまえに、どんなに深く埋めようと、過去は墓地からはいあがってくるといった。いいか、おまえもやましいことを残さないように生きていくんだぞ。」(129頁)父は、ダニエルをクランリーの工場へ機械工として送り出す。ダニエルは工場にいて時代の動きをつぶさに知っていく。
 クランリーは何とかダニエルの口からどこまで知られているか探ろうとする。ダニエルはついに、がまんできなくなり挑発にのってしまい、クビになる。デモの日が来くる。全員が全く武装しないで早朝からマンチェスターをさして出発する。進むにつれて仲間が増していくことを知り、歓声をあげながら聖ピータース教会の広場に入っていく。その大群衆の中に騎馬義勇兵の大隊がつっこんでくる。何が何かわからないままに逃げまどうデモ隊の人々。父はどさくさにまぎれこんでいたクランリーによってきりつけられる。ダニエルは、父を助けることができないままに仲間にうながされて逃亡する。ルークと逃げながら、ダニエルは、「20年もむかしの誓いをまもって、自分の身の危険もかえりみないで手をさしのべる人たちが、どんなにりっぱな人たちかもわかった。」(210頁)妹エマがクランリーの工場につれていかれたことを知り、助け出しにいく。その騒ぎの中でクランリーは殺され、工場も破壊される。時がたち、手織工たちは、紡績工場に雇われ、ダニエルは機械工になっている。かつてはクランリーを一番悪党だと信じていたダニエルは、後になって、「けっきょく自分で身をほろぼした 無知でうすぎたない人間にすぎなかった」ことを知る。
 「工場主が善人とか悪人とか冷酷だとかいうことは問題ではないので。機械は善悪などわからない。主人がだれであろうと、たとえばモーロックのように子どもをいけにえにさせる神であろうと、そんなことには関係なく、機械は自分のまえにおかれた子どもの骨までじゃぶってしまうのだ。」(268頁)選挙権を自分たちの手でかちとって議会へ代表を送り、自分たちの生活を守っていくということがどんなに大変なことであるか、あらためて思い知らされる。
 迫力ある作品にエネルギーを注入された気がする。
日本児童文学1979/08

テキストファイル化中島晴美