日本児童文学翻訳時評
99/09.10

<成長物語>のバリエーション
または<軽さ>という価値について

           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
    
 世紀末も押しつまり、この雑誌がでるころは、ノストラダムスが空振りをしたことも、おそらく判明したのではないかと思う。いや、そう願いたい。
 まずは、「新たな千年紀のための六つのメモ」というサブタイトルをもつ本、イタロ・カルヴィーノ『カルヴィーノの文学講義』(米川良夫訳、朝日新聞社)のことから。
 この本ときたら、ギリシャ哲学から現代小説まで古今の西欧文学のユニークな案内書としても、読み応えがあるし、一作ごとに「おおっ!」と目をみはらせる異なったスタイルを展開したカルヴィーノ自身の、創作姿勢の源泉をあかした書物としても読めるという、実におトクな一冊だ。
 次の千年紀にむけて保存されるべき文学的価値として、カルヴィーノは次の六つをあげていて、これらが各章のタイトルになっている。
 1・軽さ
 2・速さ
 3・正確さ
 4・視覚性
 5・多様性
 6・一貫性(ただし、この章だけは、著者の死により書かれなかった。)
 どの項目をみても、「児童文学を書くとき心がけること」のチェックリストに採用されてもよさそう。ただし、これらの「価値」の意味するところは、むろん幾ひねりもされているため、額面どおり受け取ることはできないのだが。
 たとえば<軽さ>。軽薄さとは対照的であるような<思慮深い軽さ>である。
 それは、世界の重苦しさ、不透明さ(これらは文章にとりついて活気をうばう)から逃避することなく、それを別の視点、別の論理によって見ることで得られるところの<軽さ>なのだ。
 ところで、この<軽さ>だが、こと児童文学というジャンルに関しては、子どもを読者に想定することで、多くの場合クリアしているような気がする。子どもに向かって、世界の重苦しさをそのまま語ろうとする人は、たぶん少ないから。
 多くの<成長物語>では、世界の重さは、それとぶつかりはねかえすことで、子どもの成長の糧となり、子どもは重苦しい世界を変える可能性をもった存在となる。その意味で、<成長物語>という方法は、カルヴィーノのいう<軽さ>とも深くかかわっているように思う。
 もともと児童書として書かれたものではないが、<成長物語>として“必読の力作”とすすめたくなるのが、ミシェル・デル・カスティーヨンギー』(平岡敦訳、徳間書店)。五七年刊のロングセラーを改訂した新版(九二年)の訳で、すでに古典の部類といえることも含めてホガード『小さな魚』を連想させる本。
 主人公タンギー少年の経歴は、第二次大戦のさなかに子どもだった著者自身の体験とも重なるところが多く、すさまじい。左派ジャーナリストの母親に連れられ、フランコ将軍が勝利した内乱のスペインから、父親の住むフランスへ亡命。が、当の父親の密告で、母ともども政治犯として強制収容所にいれられてしまう。
 九歳になるかならないかで、何も信じることができなくなった少年は、さらに母親とも離ればなれになり、まったくのひとりぼっちになる。ナチスドイツの強制収容所でようやく戦争の終結をむかえたのち、タンギーは故国スペインの修道院経営による少年施設に送られる。ここでも彼は、平和がおとずれてもなくならない不正や暴力に直面する。こうした現実に屈することなく、タンギーは孤独な闘いを続ける。
 大人からの愛情と庇護を失った子どもが、戦争と貧困の時代のさまざまな危機−−飢餓や暴力、さらには人間同士の裏切りや憎しみ−−にさらされるなかで、<ひとりの人間>としての知恵や力を獲得していく。
 物語の終わりに、タンギーの父母との再会と訣別が描かれる。人間をその出自で判断し、みずからは上流階級を気取る父親のスノビズム。人びとをつねに敵と味方に分けてとらえ、<尊い憎しみ>の存在を語る母親の政治主義。そういった狭い人間観を否定したところに成り立つ人間の平等にもとづく友愛、つまりヒューマニズム思想こそが、タンギーの長くつらいひとり旅によって、獲得されたものだった。
 ひとりの子どもが<自由・平等・友愛>という近代の理念を、みずからの体験で獲得するまでの道のりを描く『タンギー』こそは、市民社会の典型的な<成長物語>だと思う。

 さて、『タンギー』が<典型>ならば、こちらは<成長物語>のありかたの<多様性>を示すのか、あるいはこれも新しい<典型>ということになるのだろうか、と考えさせられたのが、ヴァージニア・ユウワー・ウルフ(あのヴァージニア・ウルフとは別人)による『レモネードを作ろう』(こだまともこ訳、徳間書店)。現代アメリカのはなしである。
 語り手の<わたし>、ラヴォーンは十四歳。
 彼女が母親と住むアパートは防犯委員会のパトロールがあり、女の子向け護身術講習会もひらかれる。貧しくて、ぶっそう。そんな街から抜け出すために、ラヴォーンは大学進学をこころざし、母親もそれを応援している。つまりは上昇志向のまじめな少女が、語り手。
 そんなラヴォーンが、進学費用のためのアルバイトで、ベビーシッターをする。その雇い主が、十七歳のジョリー。工場で働いて、ふたりの幼い子どもを養っている未婚の母。部屋には異臭がただよい、赤ん坊の手は正体不明の物質でねとねと。必要な社会福祉の手続きもしようとはしない。不潔でだらしないことを嫌うラヴォーンの母親なら、かかわらない方がいいと判断するタイプが、ジョリーだ。
 ひとことで「貧しい」とくくるには、ふたりの少女の境遇は、あまりにも違う。ラヴォーンは困惑しながら、ジョリーとその子どもたちにかかわっていく。
 ところで、この本のオビに、ちょっとひっかかった。「……ジョリーはぎりぎりの所で生きている。だけど、きっかけさえあれば、前向きになれるんだ」とあるが、これはジョリーを、努力をしないのだから、悲惨な境遇から抜け出せなくても当然な「後ろ向き」の人とみる、ラヴォーンの母親の視点ではないか。その観点からすると、これは「気の毒な人を助ける少女と、彼女に救われる少女との、心暖まるお話」になってしまう。
 ラヴォーンの目は、ジョリーをそのように見てはいない。めちゃくちゃに見えながら意思が強く、乱暴なことばで人生の真実をずばり言ってのけるジョリーの、自分とは違うすごさに、ひきつけられていくのだ。
 また、彼女たちふたりは、雇主と労働提供者という関係にあり、そのことは、「ジョリーからもらうバイト代で、ジョリーみたいにならないための切符を買う(=大学にいく)つもり?」と、ラヴォーンに、自分の生き方を問いなおさせる。 だからこれは、自分とは異なった価値観・生き方と出会い、どちらか一方に統合されることなく、互いを認めあい、影響を与えあう物語なのだ。ラヴォーンにはラヴォーンの<成長>の道すじがあり、ジョリーにはジョリーの<成長>の道がある。<成長>の道すじは、ひとつではない。両者は、ある普遍性として統合されるというよりも、よりそい触れ合って、また別れていく。
 ただし、そういった異なる価値の共存こそが「市民社会」の理想的なあり方だという理解もあり、そうなると、これもまた現代に典型的な<成長物語>と読めなくもない。
 文体についても、ふれておきたい。
 実はこの本、ひらいたときはぎょっとした。詩のような改行のしかたで、一見ジュニア小説のよう。が、読みすすむうちに、あまり説明しすぎない(彼女たちの人種や民族も言及されない)、ポップで、ときに詩的なことばに引き込まれていった。この文体は、<軽さ>の勝利のよい例だろう。

 ほかにも、文体におもしろさを感じた本を二点、紹介したい。
 まず、「手紙」というスタイルで書かれたミンディ・ウォーショウ・スコルスキー『友をこめて、ハンナより』(唐沢則幸訳、くもん出版)。ひとりの手紙なら『あしながおじさん』などでおなじみだが、これは複数の人物によるのが、目新しい。思いがけない相手から手紙が届いたり、やりとりの中で互いの関係が深まっていくのが読みとれたり、ひとりの書簡集にはない楽しみがある。
 三十年代のアメリカ、ハドソン川のほとり(対岸がニューヨーク)に住む少女ハンナと、その文通相手たちとの交流は、本を読んだり手紙を書いたりすることが階層や年齢をこえて人びとを結びつけるよき娯楽だった時代を浮かび上がらせる。などというと警戒されそうな、<失われてしまった古きよきもの>を描くことで現代に警鐘を鳴らす、といった説教臭さはまったくないので、安心してお読みくださるよう。
 もう一冊、アヴィ『シーロット・ドイルの告白』(茅野美ど里訳、偕成社)の方は、ひとりの女性の回顧録という、やや古めかしいスタイル。
 のっけから、「当時わたしは、殺人罪で告発された十三歳の女の子だった」と、読む者を驚かせる。といっても、少年犯罪の話ではない。一八三三年、上流階級のお嬢様が大西洋横断の船上で体験するはめになった一大冒険譚だ。洋上の船内で次々おきるミステリアスなできごと、孤立無援・絶体絶命の窮地に直面した少女の選択はいかに……?
 ハラハラドキドキの活劇は、文句なく楽しめる。
 しかし、この海洋冒険譚という古い皮袋に盛られているのは、大人の価値観に従順だった少女の<変身>であり、階級道徳とジェンダーの問題なのだ。ん、これらも、もう新しくはないか?(芹沢 清実