1997

<魔法>と<現実>の間で

翻訳作品のこの一年

           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
    
 昨年、手当り次第に読んだ作品の中で、一番心に残ったのは、『アリスの見習い物語』(カレン・クシュマン作柳井薫訳 あすなろ書房 95=原著出版年、以下同じ)だった。中世イギリスの農村で、名も家もなくさまよっていた少女が、産婆見習いとして力強く生きていく姿を描いている。「産婆にはまじないや魔法だけでなく、体力としっかりした判断力とヒレハリソウの薬が必要だということを学んでいった。」(25頁)のである。古い時代にスポットを当てながら、産婆という今まであまり取り上げられなかった題材をとりあげ、「とちゅうであきらめちゃおしまいだ」という産婆のとんがりジェーンの言葉にあるような、自立へのしっかりとしたメッセージが読みとれる。当たり前のことだが、舞台が古いからと言って内容が古いわけでは決してない。新鮮な物語だった。『アリスの見習い物語』は、魔法を半ば否定した物語であったが、児童文学ファンタジーでは(どころかリアリズムでも)、<魔法>は全盛である。
 魔法のベテラン作家、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの法使いハウルと火の悪魔』『アブダラと空飛ぶ絨毯』(西村醇子訳 徳間書店 86 90)は、正真正銘の魔法が生きる世界を軽妙な語り口で描いている。前作では、三人姉妹の長女で、何をやっても失敗すると思いこんでいるソフィーが、老女の姿に変えられてしまう。ソフィーは呪いを解こうと、魔法使いハウルの空中の城で下働きをする身となる。後作では絨毯商人のアブダラが空飛ぶ絨毯を手に入れ、スルタンの娘と恋に落ちるが娘はさらわれてしまう。盗まれた王女たちが協力してジンを倒す場面は恋あり駆け引きあり、現代に通じる視点が生きていて楽しめる。
 北欧神話の恐ろしい魔法の力を、語り部が打ち破る物語は、スーザン・プライスの『オーディンとのろわれた語り部』(当麻ゆか訳徳間書店 86)である。その他『魔法の輪』(スザンナ・タマーロ作 高畠恵美子訳 あすなろ書房 95)や『水のねこ』(テレサ・トムリンソン作 久慈美貴訳 徳間書店 88)は滅びゆく魔法の力を描いている。
 このような直接魔法を描いている作品ばかりでなく、ウルフ・スタルク作の愉快な話『パーシーの魔法の運動ぐつ』(菱木晃子訳 小峰書店 91再刊)や、ルーマ・ゴッデンの『ハロウィーンの魔法』(渡辺南都子訳 偕成社 75)は、どちらかというとリアリズム作品である。またディック・キング=スミス『野ウサギは魔法使い!』(三村美智子訳講談社 94)のようなSFっぽいものまで、タイトルに<魔法>の二文字がつく作品は多い。これは、靴によって勇気がでてきたり、頑固じいさんが変化するといった意外なできごとを魔法と名付けているのだ。特に後の二作は、原題に<魔法>の文字は見あたらないのにもかかわらず、である。
 読者は題名によって読みを指示される。<魔法>の二文字を題名に示すことによって、現実とは違う話だということを読者に納得させる枠組み効果をねらっているのか、<おもしろく不思議な物語>という読みへの期待を高めようとしているのだろうか。<魔法>に頼りすぎるのも考えさせられることである。
 先史時代を描いた作品は、ジーン・アウルの『大地の子エイラ』のシリーズ以来、スー・ハリソンの『アリューシャン黙示録』など新しいヒロインを生み出してきた。『歌う木にさそわれて』(マルガレータ・リンドベリ作 石井登志子訳 徳間書店 94)も、紀元前二千五百年頃の北欧を舞台に、詩情あふれる世界だ。部族から捨てられたローという少年が、旅の果てに本当の父と出会う話である。部族間の対立など興味ある主題もあるが、全体として古い父探しの物語という感が残ったのは残念だった。 等身大の人形の生活で、たっぷりとイギリス的雰囲気を味わせてくれた「メニム一家の物語」が、五巻の『丘の上の牧師館』(シルヴィア・ウォー作 こだまともこ訳 講談社 97)で完結した。死からの再生という児童文学的結末と言うべきなのだろうか。 さて、虚構の世界はすべてif「もし……だったなら」ではじまるものであるから、ファンタジーとリアリズムの区別がそれほど有効であるとはいえない。しかしリアリズムの中でも、作者の「子どもの頃の経験」をもとに書きました、と標榜する作品群がある。事実に基づいているということが、読み手の心を 動かす強力な糸口となっているのである。
 そんな一つに、『空白の日記』(ケーテ・レヒアイス作松沢あさか訳 福音館書店 97)がある。ナチスドイツと併合したオーストリアの小さな村、戦時下での村人の対立や若者の葛藤を、圧倒的な筆致で描いている。もう一つは『ナゲキバト』(ラリー・バークダル作 片岡しのぶ訳 あすなろ書房 96)だ。両親を亡くした少年が、祖父との暮らしや対話のなかで、友人との悪の道を退ける。表題のナゲキバトは少年が誤って撃った鳥だ。回想体で語られる中に挿入された祖父の話が、くっきりとした効果を持っている。
 このような少女・少年の罪の意識という主題は、この一年の作品に多く見られた。これは、時代の傾向ともいえるのだろう。『ぼくの心の闇の声(ロバート・コーミア作原田勝訳 徳間書店 92)では、アルバイト先の冷酷な商店主に罪を犯すことをそそのかされた少年の心の揺れが描かれる。また、罪を犯して留置場に入れられた少女を描く『いつかこの闇をぬけて』(インゲボルグ・バイヤー作 天沼春樹訳 ほるぷ出版 89)はユニークな題材だ。その他、『ねじれた夏』(ウィロ・デイビス・ロバーツ作 笹野洋子訳 講談社 96)や九六年暮れの出版だが『ヘラジカの森で』(メアリ・カサノヴァ著 高田裕子訳 文溪堂95)などがある。 いじめ、離婚といったテーマは従来から数多く描かれているものである。『屋根にのるレーナ』(ペーター・ヘルトリング作 上田真而子訳 偕成社 93)は、両親が離婚になって、どちらかの親を選ばなくてはいけないという時の子どもの気持ち、子どもの権利を正面から訴えている。ま た、『テレビおじさん』(ネストリンガー作 佐々木田鶴子訳 偕成社95)の意外な結末には、はっと胸を突かれた。
 『歯みがきつくって億万長者』(ジーン・メリル作 岡本さゆり訳 偕成社 72)は、二十年以上前からアメリカで読まれている作品。副題に「やさしくわかる経済の話」とあるように、子どもたちの始めた歯磨きの商売がどんどん大きくなる。こんなになったら算数の授業もさぞや楽しいだろうと思われる。
 マグダレン・ナブの『ジョシィ・スミスのお話』(たていしめぐみ訳 福音館88)は昔話の構成で、小さい子が読める心温まる話だ。
 さて、今まで紹介した作品にも物語の中に物語を挿入する話は多いが、なんと、作家が作品に登場し、登場人物が作家に注文をつける物語が登場した。絵本の『ゆかいなゆうびんやさん』などで大胆な試みをしてきたアラン・アルバーグの『とんでもないブラウン一家』(井辻朱美訳 講談社 95)のとんでもないお話だ。
 また、マーガレット・マーヒーの『ヒーローの二つの世界』(清水真砂子訳 岩波書店 95)は凝った構成で、読者の現実の枠組みは大いに揺れる。主人公の少女ヒーローは、にぎやかな家族の中で、言葉を発せなくなってしまった少女だ。クレデンス屋敷の森の木の上にいるときが、ヒーローにとって真実と思われる時間だった。個性あふれる大家族の登場人物にひかれて読み進むうちに、物語はミス・クレデンスの秘密に行き当たり、最後にまたどんでん返しが来て……とあきさせない展開だ。
 この二つの作品では、読者が作品を読むとき設定する、「もし……だったら」というフレームは、何回もひっくり返される。読者は、してやられた、と思いながらも自分が今読んできた物語の再構成を迫られる。
 昨年ある図書館の講座で、お母さんから「うちの子は本にのめり込むタイプで、現実と区別しているのか不安です」という質問を受けた。これは現実に起きたM君やA君の事件を反映しての質問だろう。ここでこの問いに答えられる力もスペースもないが、考えてみれば現代の世の中でゆるぎのない現実や、ひとつだけの事実というものはない。現実は認知されたり語られたときから、表現方法によって幾通りもの物語となり、重層的なものとなるからだ。この一年のさまざまな物語、<魔法>の物語、事実に基づいた<現実>の物語、そして物語の再構成を迫る物語にふれて、物語を読むことは、自分の周りの世界を見る目を鍛えることなのでは……と思った。(林美千代)
日本児童文学1998/5,6月号