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おずおずと歩みゆく少年と小犬がいつのまにか、
 ルイス・キャロルにもなってくる冬の部屋で

           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
    
 年末ということを、例えば東京からの速達が八日もかかって届くといったことで気付かされる。'79年用の当用日記を買い込んで、ここ二三ヶ月のひどいスランプよりは、何もない空白のページたちのほうに顔をむけている。


(1)ねこと少女と<よろこび-ジョイ->と

 今年は、あまり圧倒されるような作品に出会えずものたりない思いが残っているが、年末になって"一くせ"ある数冊があらわれいでた。
 T・S・エイオットしぎ猫マキャヴィティ』(北村太郎訳 大和書房 1977)は、そうした中でなみはずれたおかしさをもった詩集である。T・S・エリオットというと『荒地』をはじめとする難解な現代詩が頭をかすめるが、この詩集では、さまざまの猫の(いささかの犬も登場する)ありようが物語詩としてうたわれている。十数ひき出てくる登場猫はそれぞれの個性的で原タイトル Old Possum's Bookof Practical Cats(1939)が示しているように、(エリオットはOld Possumというニック・ネームをもっていた。)猫として、実際的で体験豊富である。読み手によってお好みの猫は違ってくるだろうし、数々の深よみができるしかけになっている。
「マキャヴィティ、マキャヴィティ、マキャヴィティ、みたいな猫はいない。/にんげんさまの法律をぶちこわしただけでなく、引力の法則もふみにじる。/空中浮揚の能力には行者もびっくりしてしまう。/何しろ犯行現場に急行しても――マキャヴィティの姿は見えない!/地下室を捜すのもいいだろう、空を見あげるのもわるくはなかろう/だがね、なんどでもいうが、マキャヴィティは現場にいたためしがない!」(56−57頁)はタイトルになっている犯罪王ナポレオとよばれる"ふしぎ猫マキャヴィティ"の一連である。マキャヴィティとグラヴィティ(引力)といような韻のおかしさは翻訳の泣きどころであるが、訳者は、「自由気ままに訳」(96頁)しておられ、楽しんでよめる。「猫っていうのは、きみやぼく、/それにいろんなタイプのほかの人間どもに/とってもよく似ているんだよ。/中略…/でもね、どんな猫でも詩になるのさ」(81頁)というわけである。
 同じ"一くせ"あり、といっても、ルイス・キャロル女への手紙』(高橋康也・迪訳 新書館 1977)は、一そう独持で、涙を誘わんばかりのいたいたしい努力と時間をかけて、少女の友だちに書いた手紙集の翻訳である。パズルや絵文字入りの手紙、即席につくって書き綴った短編のストーリーなどが随所に入っていてもらった少女としては、おもしろくもよめるが、キャロルに興味をもっているものには、『鏡の国のアリス』に出てくる白い騎士さながらの日常の行動と心理が窺えてセンチメンタルになってくる。深々とした孤独と、報いられることの少ないはかない愛をバックにして、表面ではさりげなく、例えば、「おねがいがあります。いつかの晩きみの家で会ったきみのいとこたち(でしたよね)の苗字をおしえてください。(25頁)などといって少女たちへの思いをひろげようとしていく。ここで"手練手管"という言葉を、使うのは実に奇妙に感じられるのであるが、キャロルの読み手に対するサーヴィスぶりは、この言葉がどこか似合うようである。
「追伸 この前の金曜にわたしに起った唯一の不幸なことはきみが手紙をくれたことでした。やっぱりね!」(21頁)、「返事を待っているわたしに、こんなに何週間も待ちぼうけを食わせておいて、あげくのはてに、すまして別の話を書いてくるんですからね。まるでなにごともなかったみたいに!」(27頁)「子供のなかには、『おとなになる』というじつにいやらしい癖を持っている子がいますね。このつぎお会いするまでに、きみがそんな癖を身につけていないようにと願っています。」(50頁)――のような文章にふれると、プライバシーに不意にふれたとまどいと、内容のもつあまりの真摯さに、そこはかと、哀愁を感じてしまうのである。キャロルが子どもとの間に橋をかけるのに使った手品や謎々、言葉遊び、ゲームなどは、『キャロル大魔法館』(ジョン・フィッシャー編 高山宏訳 河出書房新社)として時を同じゅうして刊行されているが、その遊びの精神の徹底さに、あきれ、やがて、うたれるのである。
 キャロルのこうした一面にふれると、マデライン・エドモンドソン女のたまご』(ケイ・コラオ絵 掛川恭子訳 あかね書房 1977)の魔女アガサのさびしさなどたかがしれていると感じさせられる。幼年童話の中では1974年発行という新しいものではあるが、特にこれといって新味のない作品である。魔女アガサは、へそまがりでともだちもなく、テレビとスリッパとほうきとくろいかたかけだけを頼りに、町の人をこわがらせることを仕事にしている。あるとき、カッコウの卵をみつけて、いきがかりからあたため、かえす。たまごから出てきたとりにマジョドリと名付けずっと行動を共にする。秋になってカッコウは、どうしてもたまらず自然の声によばれて渡り鳥として遠くへいってしまいアガサは悲しくてたまりません。けれども春がきて、マジョドリはアガサのもとに帰ってきて、以後ずっとそのペースで仲良くくらしていく。ちょっとおもしろく、ちょっと楽しく、しばらくすると、忘れてしまうような無難なものになっている。
 読了して、どんな読者がよむのかよくわからなかったものに、アン・アーノット・S・ルイスの秘密の国』(中村妙子訳 すぐ書房 1977)があった。C・S・ルイスの伝記物語である。研究者向きでもなく、『ナルニア』のファン向きでもなく、作品とは自立した伝記としてのおもしろさもものたりない。C・S・ルイスという人の生涯はかなり丁寧に辿られ、抑制のきいたアプローチの中で、〈よろこび〉を得ていくさまを追っている。〈よろこび〉とは、兄のビスケットの空カンの蓋につくった箱庭の中に、まるで背たけがちぢんで小人になって入っていったような気のする感動的な体験から名付けられた感覚で、〈よろこび〉の真の源を見つけたことから、彼の文学や宗教論が出ていることが追求されている。想像力の世界は豊かでも、スポーツや学校という体制の中でうまくやっていけない暗い少年時代ということでは、こうした少数派の感じやすい人々には、共感をよぶシーンが多い。

(2)デンマークの民話
 
 ヴァージニア・ハヴィランド再話『デンマークの民話 はねとびおなべ』(マーゴット・ツェマック画 八木田宣子訳 富山房 1977)は五編のデンマークの民話を英文によって再話したものである。五編ともどこかで読んだ覚えのあるようなよく知られているパターンの範疇に入る作品ではあるが、それぞれに、語り口のままに、おもしろくよめてしまう。

(3)今という状況の中で

 ジュディ・ブルームというのは、アメリカで、子どもの(特に女の子の)読者の数が多いということでは第一人者である。ギーの家』(長田敏子訳 偕成社 1977)が『カレンの日記』につづいて日本に紹介された。ブルームがもてているのは、十歳前後の子どもたちが、もっている"今"の問題をとらえて深刻になりすぎることなく、独自のユーモアも入れて、解決への道を示していくことにある。親や教師はともすれば"今"の問題に無関心であるか、無力であるか、一方的な価値を押しつけるかになりやすい。
 親友イギーが引っ越していった家に、移ってきたのは、グレン、ハービー、ティナという三人の兄妹のいる黒人一家、白人ばかり住んでいる町では、主人公ウィニー(十一歳)の両親を含めて様々な反応がおこる。特に、ランドンのおくさんは、ガーバー一家を追い出す署名を集めたり、町を出ていけ! という立て看板をたてたりして一家にあたる。ウィニーは、三人と仲良くなろうと努力を重ねていく。ウィニーは、大人の偏見と反応の鈍さを知り、解決への道をさぐっていく。「パパもわたしも、ほかの人たちの生活に立ちいるのはよくないって信じているのよ。こういうことは自然に解決していくものなの。ウィニー、あなたは改革運動の闘士よ。いつも、なにか新しい大義名分をみつけては、それをまもるために、すぐ戦いにつっこんでいく。考えようによっては、あなたって、ランドンのおくさんににているわ。」(126頁)と母親にいわれ、ガーバー一家を支持する勢力を集めようとする。ハービーに時には皮肉をいわれたりしながら、結局は、友達関係をつくっていくウィニー。「一週間! ほんとうに、わずか一週間だったのだろうか? 何年たったように感じられる!」(198頁)と成長し ていくウィニー。良いも悪いも、軽く軽くユーモラスに、しんどい問題を書こうとしているところにあって、現代というむずかしい時代を少しだけ考えてみる一種のレファレンス・ブックスとして、今だけ有効なものとなっている。
 ジェイ・ベネットったひとりの証人』(沢田洋太郎訳 偕成社 1977)も、『イギーの家』と同じ現代ジュニア文学というシリーズに入っているが、主人公は十八歳の大学生マットである。"児童文学の子ども離れ"ということが一時期よくいわれたが、この作品でもわかるように、現代になってわれわれが子どもでいられる時代が長くなり、かつては大人の文学で扱っていたテーマを今は、児童文学でも扱うようになってきたと考えるのが自然である。子どもということの意味が、期間が大きい変化を遂げたのである。
 マットは、医学部に進もうとしている学生で、夏休みに映画館でアルバイトをしている。ある雨の午後、殺人事件をたった一人で目撃してしまったマットは、犯人が黙っておけと脅迫していることと、自分の良心の板ばさみになり、少しずつ、追いつめられていく。ドライブ・インでは、マスターが何げなく「みんなたがいに、どうやってなかよく暮らしていくか知らないんだ。だから、とどのつまりは、殺しあいになるだろう。」(43頁)などという。マットは過去にフットボールの選手として将来を有望視されながら、試合中の事故で人を殺してしまうという体験をしていて、それから逃れることができないでいる。路地で殺された男を無視することができなくて、関わりをもっていく。殺された男の妹のジュリーとの恋、殺し屋ラッドとのやりとり、黒幕のカースンの息子がわりになるようにという申し出、警官との心理合戦、母より父と離婚するときかされることなどを通して、一つの選択――独力で事件の解決をせまる――をする。悪が亡び、ジュリーと結ばれるような余韻を残して物語は終る。ニューヨークという都会の寒々した雰囲気や、そこにいる人の孤独感、人間模様を殺人という事件を通 してあきらかにしていく。現代の社会にあるテーマがいくつもあってどれも中途半端なところにとまっている。マットの自己確認にしても、カースンがうたれ、「暴力は終わったんだ。」(245頁)という結末では、母親の、父親に対する見方、「おそろしいことよ、マット。内部から死んでいく男を見るなんて。いちばんたちのわるい死だわ。」(213頁)をそれたマットを行動へかりたてたものの本質には、せまりえない。ぐいぐいと早く読めるだけに、もう少し入念に、意外でしかも説得力あるものにしてほしいのである。

(4)戦争をどう切りとるか

 ここ数年、外国のいわゆる戦争児童文学が次々と翻訳され、外国から戦争をみるということができるようになってきている。疎開生活や焼け跡ぐらしをとってみても日本のそれと、イギリスなど戦勝国とでは、表面的なくらしの悲惨さには、かなりの相異はあっても、どちらも戦争によって大きい傷をおっていった人々について描いていることで質的な相異はないのである。
 シーラ・パンフォードル・リア-戦火の中の犬』(中村妙子訳 評論社 1977)の中で試みたのは、戦争によって一匹の犬が受けた心の傷についてである。1940年、第二次大戦のさ中、ドイツ軍の爆撃を避けてフランスの街道をいく幌馬車があった。馬車は、旅芸をする老人と黒衣の女と、小犬と猿と熊がいて、彼らとふとしたことからイギリス人のシンクレア伍長は、かかわりをもつ。シンクレアの負傷を助けるためにそれた脇道で馬車は狙い打ちされ、その結果、生き残った犬と猿を引きうけることになって、救助船に二匹を伴ってくる。船は混雑の中で、敵機に襲撃され海に投げ出されてしまう。「生きようとする意志が失われかけるつど、犬の目ざしが彼を生へとひきもどした。そして彼もまた誘われるように目を見はり、ひたと見据えている目の中に、自分自身の顔を見いだすのであった。」(60頁)やがて、ボートがき、駆逐艦にうつされ重傷患者として医務室に送られたシンクレアに頼まれて、看護兵ニール・マクリーンが犬を世話する。かつて、獣医の助手をしていたマクリーンは、有能ではあっても頑固一徹で無愛想、とりつくしまのない男であって、犬 は、心を閉ざし、食べものを受けつけない。
 マクリーンは自分なりの良心にしたがって、義務をはたしているという信念から、なかなかリアが理解できない。あるとき、「おまえが睨まなきゃ。食おうって気になるかも知れないじゃないか。」(136頁)と指摘されたことがきっかけになって笑いながら「食ってもいいよ」といったマクリーンに驚いてリアはハンストをとくことになった。リアとマクリーンはうまくいくようになり平安がつづく。船が帰港することになってシンクレアにリアを返す決心をする。ところが、リアをあずけた家がプリマスの空襲によって破壊しつくされてしまう。リアは、逃れて、生きのびる。郊外にさまよいでたリアは倒れたガレージの下敷きになっている老婦人をみつけて、手を舐めて励まし、やがて救助された老婦人ミセス・トレモーンは、「あの犬の前足を握ったとたんに、力が迸るように伝わってきたんだから。」(199頁)と信じ、ベルと名付けて可愛がる。気むずかしかった老婦人はベルの存在によって少しずつ変化していく。そこにマクリーンがあらわれる。結末はシンクレアが二人にベル・リアをゆずり、マクリーンは老婦人のもとにいるお手伝いのジャネットと結婚し、ベル・リアは、最初に愛情をそそ いでくれた女の人をずっと忘れなかったのだが、死期が近づき、その人のためにダンスをしながら、死んでいく。
 作者がここでいいたいのは、「人間が戦いに赴くときには生命を失うという可能性に意識的に賭けるのだ。しかし戦争に好んで行く動物はいない。死をもたらす戦争という人間の営みにおいて、動物はつねに場違いな倒錯的存在である。」(257頁)という文章によくあらわれている。ベル・リアという場違いな生き物によって戦争で死にそうになったり、心の内では死んでいた人間がよみがえるという視点は、もし人間も動物であるということも考えあわせればより深い洞察をもちえたのではないかと思われる。小犬・ベル・リアを反戦のシンボルとして考えることもできえたかもしれない。
 ム兄さんは死んだ』(J・L・コリアー&C・コリアー作 青木信義訳 ぬぶん児童図書出版 1977)は、兄弟の作家と歴史家が協力して出来た作品だということで、アメリカの独立戦争に新しい認識を与えた、新しい歴史小説として、建国二百年のアメリカで評判をよんだものである。1775年―79年のコネチカット州のいなか町にすむミーカー一家の物語である。語り手は次男ティム(最初十三歳)。居酒屋をやっている父と母がいて、長男のサムは、大学生であったが自由と独立のためと称して独立軍に加わっていく。町全体が国王派であり、父もそうであるので、ティムは、思い迷う。「兄さんの話を聞くと、独立派のほうが正しいようだし、父さんの説明を聞くと、国王派が正しいように聞える。でもさ、ほんとうのことをいうと、父さんだってじつはどっちでもいいみたいだ。父さんはただ戦争に反対なんだ。」(140頁)牛を売りにいって父親が捕まったらしい。母親は、「こんなことに耐えなくてはならないなんて、わたしたちがなにをしたというのでしょうか。」(197頁)と叫ぶ。サム兄さんは、家に帰ってきた喜びもつかのま、牛どろぼうの汚名を着せ られて、丁度軍をひきしめるための見せしめに欲しかったパトナム将軍の方針によって銃殺されてしまう。ティムは、あまりの理不尽にあちこち走りまわり努力するが徒労に終ったのである。「長い目で見れば、だれかを死刑にするほうが、戦争を早く終らせて、大ぜいの人を救うことになる。」(255頁)という論理におしつぶされていったサム兄さん。作者はいう、「最後に、ひとつ疑問が残っている。アメリカ合衆国は、これだけの苦しみや、殺人をおかさなくては独立できなかったのだろうか、ということである。」(283頁)と。ティムが独立という目的を達成するにも、戦争以外の方法があってもよかったのではないかと生涯、思い続けていくことと、現代のわれわれの戦争観はつながる。直接、戦争に参加することのなかった少年の目を通してそれが語られる重みがずっしりとかぶさってくる。歴史というものを現代の史観で洗い直してみると、過去に書かれていた歴史とは全く違ったものが見えてくるのである。(さしえの稚拙さが、テーマの重厚さを著しく妨げていて、おしい。)

 (5)旅――うちなる、外なる――

 マインダート・ディヤングペパーミント通りからの旅』(マッカリー絵足沢良子訳 講談社 1977)は、よみごたえ充分の一冊であった。テーマも文体も背景も人物も、一つにとけあい地球ではあるが説得力をもっている。一人の少年の旅を内面的に描き、大人との間のゆれを敏感にとらえている。
 九歳のオランダの少年シーブレンは、幼い障害をもった(このような言葉は一度も使っていない)弟ニリスお守りしている。父親は、大工で家にいないときが多く、母親には赤ちゃんが生まれることになっている。ニリスがチョコレートのかんをつかんだとき、親指がはさまって出血するケガをしたシーブレンは、やってきたおじいさんと重病のお姉さんを見舞い、奥地にいるシーブレンのおばさんの修道院に訪ねる旅に出かける。犬に襲われたり、初めての体験を重ねながら夜の中を進んでいく。二人の対話は意味深い。情景描写は、感覚にうったえてくるものがあって印象に残る。特に沼地を通っていく二人にははらはらさせられる。おじいさんが沼にはまるがとっさの機転で助かり、ヒンカおばさんがボートで迎えに来てくれる。おばさんは昔修道院であった家に耳がきこえなくてえ口のきけないおじさんと住んでいたのだった。「口をきかないで、ずっと生活しなければならない人たちは、深く考えるのよ。」(330頁)をきいたとおりおじさんはすばらしい人でかわかますを共に飼ったり、さまざまの点で理解しあえるようになる。ヒンカおばさんにはこれまでの人生で出会った大切なことを聞いて もらいました。「シーブレンは話し終りました。すると、とても気持ちがらくになり、おなかがからっぽになって、まるでおなかがすいたときのようになりました。」(283頁)竜巻がおそい、屋根が落ちて閉じ込められたおばさんとシーブレンは、修道士の掘ったトンネルを発見し、香油をみつける。部屋の中にあった井戸につながっていることが判明する。おじさんが帰ってきて、家に送ってもらうことになる。家に着くと父親がいて、犬のウェイファラーがいます。ダしかいわなかったニリスが香油をぬるとシープという。奇跡だとシーブレンは思う。
 シーブレンの旅は、見るもの、聞くものすべてを、自分の感覚で受けとめ、自分なりの人気に変えていく発見の旅である。世の中は、シーブレンにとって、脅威に満ちている。おずおずと歩みゆくシーブレンのけなげさと、彼をとりまく純粋な大人たち、得にヒンカおばさんの知恵に満ちた態度と言葉は、美しい。おじさんの「一つの奇跡が実現すればそれにつづいてくるつぎの奇跡は、ずっとらくにやってここられるではないか。」(331頁)という考え方や、おじいさんの悪魔の手まりというイメージ、いろんなところで口をついて出る歌を通して、ディ・ヤングが現代のアメリカには求めるべくもない世界をふるさとオランダの少年時代にのせて創造しているのは、また、一人ぐらしの老人や障害をもつ人を通して語っているのは、精冽なこの時代への挽歌かもしれない。九歳の少年の心を少し昔の自分とだぶらせ読みえる年齢から上の人々に静かに愛されていく作品であろう。(三宅興子
テキストファイル化 大塚菜生

「日本児童文学」1979年2月号