つまみぐいのあやうさ

平湯克子

           
         
         
         
         
         
         
    
    
 小出監督の選手育成法が注目されている。でも、そのほとんどはつまみぐい。「ほめる」だの、「心のつながりが大事」だのと自分の感性に合う項目のみを取り出している。育成する相手は世界に通用する力量があり、ものすごい訓練があってこそのメッセージだということを忘れている。総体を見ず、一部をつまんで凡人に当てはめてもねーと思う。
 ものごとの全体というものは、いつもいつも意識していないとなかなかつかめない。その人が何を言いたいのか、そのことは何を意味しているのかは部分だけ見ると誤解してしまう。本の読みも同じだなと思う。好きな場面に固執することを否定しないけれど、作者の思いは全体をつかむ努力なしには伝わってこないように思う。
 さて、今回は絵本から。
 手のひらサイズの小さな一冊『たなかひろみのだじゃれなどうぶつたち』は、「かめがかめない」「ぞうがぞうにをたべてぞうきんでふく」……といったなんでもないだじゃれを動物の名前とかけて説く。見開き二ページでひとつの動物で計十五匹、それに扉のうさぎという構成。オヤジギャグなんて言われそうだが、だじゃれは文化でもある。つまらないことを言わずに充分楽しもう。
 固定的なファンを持つヘルネ・ハイネの新作で白黒の絵本『ぞうのさんすう』はシンプルイズベストという向きにはピッタリ。上質なユーモアに人生観がまぶされて、読者の年齢を問わない。内容は、年齢を排泄物の量とからみあわせて考えるというユニークな発想。一歳のときはうんちは毎日一個、二歳になると二個、三歳は三個……、そして人生の曲がり角の五十歳を過ぎてどうなるかは見てのお楽しみ。
 ぐっと高学年になって、『夏の終わりに』は、十五歳の少女の感情がしっかり伝わってくる物語。両親の離婚と父親の再婚、自己チュウにしか見えない姉の結婚式直前のゴタゴタに振り回されうんざりしている。しかも、自分ときたら、なぜかどんどん背が伸びてちっともかわいくない。親友ともうまくいかない……。姉は次々とボーイフレンドを変え、今はどうってことのないつまらない子とつき合っている。いつだったか好感度高い子がいた。その子は明るくて、楽しかったっけ。そのボーイフレンドが家に来ていた頃、あの頃はすべてがよかった……。
 現在の自分が不安定で不満足なのは周囲のみんながかきまわすから。イライラ。こうした思春期の不安定な様子がとってもリアル。
 最後に、作者十六歳という『クレイジー』は、作者の「クレイジー」な寮生活の話。彼は数学が特にダメで単位を落とし続け、この全寮制の高校が五校目という人物。しかも、半身麻痺が残る障害者。障害者? そんなものはぜんぜんメじゃない。障害者もワルはワル。六人の仲間で、酒、タバコ、女子寮侵入……、そのあげくに集団脱走とくる。それもあの『ライ麦畑でつかまえて』のような社会批判なんかもメじゃなくて、青春のエネルギーを吹き出しているという感じ。体臭まで感じられるほどに。その青春がとってもいいのは、どこぞの十七歳のように他人に危害を与えるというのではなく、ワルをしながらも、「人生とはなにか」という哲学をしっかり語り合っているからだ。「ドイツのサリンジャー」「文学のモーツアルト」などと言われ、ドイツではもちろん、世界二十六か国におよんで売れているという。


『たなかひろみのだじゃれなどうぶつたち』(たなかひろみ文・絵、くもん出版) 
『ぞうのさんすう』(いとうひろし訳、あすなろ書房)
『夏の終わりに』(サラ・デッセン作、おびかゆうこ訳、徳間書店)
『クレイジー』(ベンヤミン・レーベルト作、平野卿子訳、文藝春秋)